歩・探・見・感

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木製仁丹町名表示板 本郷區根津須賀町 消滅!?

本日(2022年5月9日)、目撃情報を頼りに文京区と台東区にある旧町名等を探索してきた。

文京区のものは、比較的に速やかに発見することができたので、根津に立ち寄ってみることにした。

根津神社に立ち寄り、木製仁丹町名表示板の無事を確認しに訪れた。

しかし、あるはずのところにない!

戸袋の左側に設置されていたのが、ない。

ショックで呆然と立ち尽くす。

 

はがされた跡が残っていた。

どこへ行ったんだ!

 

今日は残念過ぎて眠れないかもしれない。

 

心が落ち着いたら、東京の木製仁丹町名表示板について(6)の後日談を書くことにしよう。

旧町名 杉並区松ノ木町

杉並区松ノ木町のものは以前発見していたが、未紹介だった。今回新たに発見したものもあるので、併せて紹介しよう。

 

①松ノ木町一二二〇

発見日  2021年7月19日

発見場所 東京都杉並区松ノ木2丁目

区名が省略されている。

 

②杉並区松ノ木町一一二一番地

発見日  2022年4月30日

発見場所 東京都杉並区松ノ木3丁目

 

③杉並区松ノ木町一二一六

発見日  2022年4月30日

発見場所 東京都杉並区松ノ木2丁目

 

四桁だからか、みんな一の後にカンマが付いている。
珍しいような珍しくないような。

 

住居表示の実施により1~3丁目にわかれる。旧松ノ木町を中心に大宮町、堀ノ内1丁目の一部からなる。

 

地名の由来

杉並の地名 文化財シリーズ19から 
地名の起りについては、域内に往時松の大木があった。或は松の木が多かったので、この小字となったものと伝えられている。

 

杉並区に「松ノ木」は残ったが「柿木」は消えた。
何の話だ?
町名の話だ。
「松ノ木町」は「松ノ木」で残ったが「柿木」はどこ行った?

旧町名&電力プレート 杉並区柿木町

杉並区柿木町(かきのきちょう)のものは以前発見していたが、未紹介だった。

杉並区の旧町名には「松ノ木町」もあり、最初は気が付かず、「松ノ木」と「柿木」を混在させてしまった。

 

柿ノ木町24

発見日  2021年7月5日

発見場所 東京都杉並区上井草1丁目

区名が省略されている。

「柿木町」が正しいはずだが、「柿ノ木町」と書かれている。

読みが「かきのきちょう」なので、紛らわしい。

楕円形の旧町名の表札はあまり見かけないが、たまに見かける。

 

②東京都杉並区柿木町一〇四番地

発見日  2021年7月5日

発見場所 東京都杉並区上井草1丁目

 

③電力プレート「カキノキ-4」

発見日  2021年7月5日

発見場所 東京都杉並区上井草1丁目

歴史

下井草村に属し、字柿木(柿ノ木

1889年(明治22年)5月1日
町村制施行、上井草村、下井草村、上荻窪村、下荻窪村が合併する形で東多摩郡井荻村が発足。

1896年(明治29年
東多摩郡豊多摩郡になる。

1926年(大正15年)7月1日
井荻村が町制施行し、井荻町となる。

井荻村、井荻町時代は字下井草小字柿ノ木

1932年(昭和7年
豊多摩郡杉並町・井荻町は東京市編入され、杉並区の一部となる。
区制施行後は杉並区柿木町になる。

1963年(昭和38年)12月1日
住居表示により、一部が上井草一丁目になる。

1964年(昭和39年)6月1日
住居表示により、残りが今川一丁目になり、柿木町は消滅。

 

地名の由来

地名由来は不明であるが、古くからの名で、おそらく部落を代表するような柿ノ木があったことから呼ばれたのであろう。

 

昔この辺りの農家では庭先にマメガキを植えて、渋柿を作り、それを板塀や農具の柄などに防腐剤として塗っていたそうだ。

 

柿木公園、柿木北公園や柿木図書館に名を残している。

電力プレート カコイ-3 Part4

まだ書くことがあるのか?

しつこい。

と思っているあなた。

自分でもそう思う。

 

訪問日 2022年5月7日

直近で旧町名の痕跡が一番消滅の危機にさらされているところがここだと思い、気になってしょうがない。
他にもあるかもしれないが、まだ情報を入手できていない。

ということで、通行止めになった様子を確認してきた。

 

当たり前だが、この先は通行止めになっていた。

土曜日だからか、警備員らしき姿はどこにも見えない。

 

封鎖されている反対側に回ってみる。

この先に跨線橋がある。

 

この通り、跨線橋から先は通行止めになっていた。
電話ボックスはまだ無事なようだ。
跨線橋上のウサギの絵も健在だ。

 

区画道路

右側がA地区(囲町東地区)、左側がB地区(囲町西地区) と呼ばれている。

 

区画道路に面したA地区(囲町東地区)側のこの住宅の両側の路地はまだ入れるようだ。

右側の路地を入っていくと、永世屋さんがある。
路地をのぞくと、ご主人の姿が見えた。

 

この路地もいずれ封鎖されてしまうのだろう。

 

今回は時間の関係で、立ち寄らなかったが、前回の記事で永世屋さんに「永世屋さんで保存していただき、新しい店舗ができた時、飾られてはいかがですか?」と提案してみようと書いたが、少し案を練り直した。

次回訪問した時、ご主人がいたら、以下の提案をしてみる予定である。
「この電力プレートは永世屋さんで保存していただき、仮店舗で飾っていただき、新しいビルができたら新店舗でも飾っていただけませんか?
もしかしたら、マニアの方が再開発を潜り抜け、生き残った幻(いや、伝説かな)の電力プレートを見に来てくれるかもしれません。
そして、ついでにお酒を買ってくれるかもしれません。
インスタをやられているようなので、宣伝してみてください。」
と考えてみた。
この提案を受け入れてもらえるだろうか?
そもそも言えるかということと、言えるタイミングがあるかということが大きな問題だ。
企画倒れになることも十分考えられる。

期待しないでほしい。
もしこの提案が受け入れられたら、後日談の記事を書く予定である。
記事が無かったら、失敗または言い出せなかったと思ってほしい。

電力プレート アケボノ-48

立川市で初発見の電力プレートだ。

 

発見日  2022年5月7日

発見場所 東京都立川市曙町3丁目

廃屋と思われる木造家屋の玄関付近に設置されていた。

通り沿いだったので、人通りが気になり、慌てて撮ったせいか、ぼけてしまった。

失敗作品だが、我慢してもらおう。

多摩には、

ではない、
たまにはこういうこともある。

 

歴史

1881年明治14年
柴崎村から立川村に改称。北多摩郡内に同名の柴崎村があったため、戦国期の郷名である「立川」に改称したとされる。

1889年(明治22年
町村制施行に伴い、神奈川県北多摩郡立川村および砂川村が成立。

1923年(大正12年
立川村が町制施行し立川町になる。

1940年(昭和15年
立川町が市制施行し立川市になる。東京市、八王子市に次いで東京で3番目に市制施行した。

1942年(昭和17年)12月1日
曙町が設置される。

1954年(昭和29年)
砂川村が町制施行して砂川町になる。

1963年(昭和38年)5月1日
砂川町が立川市編入される。

1966年(昭和41年)10月1日
住居表示により、現在の曙町一〜三丁目が成立。

 

立川市羽衣町というところがあるのだが、地名整理の際、曙町とするところを軍に反対され、羽衣町と曙町とを交換したようだ。
町名決定までの原案では曙町の町名が付けられていたのだが、現在の曙町に付けられる予定だった羽衣が落ちるイメージがあると飛行場を持つ軍からクレームが付き、羽衣と曙を入れ替えたという話も伝わっている。

旧町名&琺瑯住所プレート 杉並区馬橋

旧町名業界では高名な102soさんが読売新聞に取材を受けたという記事を見つけた。
4月29日読売新聞朝刊くらし面に「まちなかの絶景」第3回「旧町名表示を探せ」という題で掲載されているそうだ。
読売新聞は購読していないので、記事は読んでいないが、どんなことか書かれているのだろうか?
ネットで調べてみると一部見ることができた。
そこには年齢が載っていた。
38歳だそうだ、若い。
2006年頃から旧町名の探索を開始されているそうだから、今年で16年。
雑誌にも寄稿されているようで、すごい活躍だ。
仕事は何をされているのだろうか?
二足の草鞋、二刀流と両立されているのだろうか?
これからも旧町名業界の牽引者として、頑張っていただきたい。
と、この業界の大先輩に対して、年上目線で申し訳ない。

 

自分は前期高齢者の一歩手前ぐらいだが、時間と体力には自信があるので、going my wayで頑張っていこう!

 

さて、今回は、杉並区馬橋の旧町名の痕跡を最近発見したものがあるので、以前発見したものと合わせて紹介しよう。

 

①馬橋4~439

発見日  2021年7月19日

発見場所 東京都杉並区阿佐ヶ谷2丁目

 

②杉並區馬橋一丁目一四番地

発見日  2022年4月30日

発見場所 東京都杉並区梅里2丁目

白い石なので、薄くてわかりにくいかもしれないが、「馬橋」の文字が見える。

こんな目立たない表札では意味がない。
元は黒い文字だったのだろう。

老眼は小さい字はもちろん薄い文字にも弱い。

 

③杉並區馬橋三丁目三一七番地

発見日  2022年4月30日

発見場所 東京都杉並区馬橋阿佐ヶ谷南3丁目

区が旧字体で、右書きなので、戦前のものかもしれない。

下部の方が劣化している。

 

馬橋の名称はいろいろなところに残っていた。

 

馬橋小学校

 

馬橋公園

杉並区立馬橋公園の沿革
この公園は、国から譲り受けた「気象研究所」の跡地に造られたものです。
気象研究所は、昭和二十一年に中央気象台研究部として気象・地象・水象等に関する研究を目的に、当地に再発足し、昭和二十二年気象研究所と改称されました。
昭和五十五年筑波研究学園都市に移転するまで三十四年間にわたり、我が国の気象・地象・水象に関する現象の解明と予測の研究に貢献した施設です。
 所在地 杉並区高円寺北四-三十五-五
 面積 十九、二六一・三三平方米
 用地所得 昭和五十八年三月十六日
 前所有者 大蔵省(気象研究所
 公園造成期間 自 昭和五十八年十二月二日 至 昭和六十年三月六日
 開園年月日 昭和六十年三月三十日
 平成三年三月設置
 東京都杉並区

 

馬橋稲荷神社

石造大鳥居には、左に昇龍、右には降龍の彫刻が施されている。龍の巻き付いた鳥居は珍しく、都内では、品川神社・高円寺寺内稲荷神社と同社の3社だけ。合わせて、「東京三鳥居」と呼ばれている。

 

馬橋自治

馬橋地区町会連合会には、高円寺緑ヶ丘町会、梅里二丁目町会、新高円寺町会、阿佐谷南一丁目東町会、馬橋自治会、馬橋三丁目東自治会、馬橋二丁目北自治、阿佐谷南一丁目親睦会の8町会・自治会がある。

 

防犯モデル地区

一番下に馬橋北自治会が入っている。

 

コミュニティふらっと馬橋

 

民家に掲げられていたが、何だろう?

歴史

1924年大正13年)6月
杉並村は杉並町となる。

1932年(昭和7年)10月1日
東京市が誕生し、杉並、井荻、和田堀、高井戸の4ヶ村で、杉並区が編成された。区制の施行で大字、小字が廃止され、旧馬橋地域は馬橋1~4丁目にわけられた。

1965年(昭和40年)~1968年(昭和43年)
住居表示実施により、馬橋1~4丁目は阿佐谷北1〜5、高円寺北3・4、高円寺南2・3、阿佐谷南1・2、梅里2となり、馬橋は消滅。

 

旧馬橋地区は、地主を中心とした馬橋の名に親しんだ住民の反対はあったものの、「馬橋の地名は田舎臭いし、知名度も低いから、知名度の高い高円寺か、阿佐ケ谷の地名に変えて欲しい」との住民の要望も多かったため、中央線の北側地域は高円寺北に、中央線の南側地域のうち、馬橋中央通りより東部は高円寺南に、西部は阿佐谷南に改称した。

青梅街道南側の旧高円寺3丁目と馬橋1丁目の住居表示協議会で、区の住居表示課より「高円寺3丁目は堀之内、馬橋1丁目は成田に含める」という案が提示されたが、住民から「堀之内は、堀之内火葬場が連想されるから駄目だ。成田は成田山(不動様)と間違われる」と、強い反対論が出て、なかなか町名が決まらなかった。
馬橋1丁目自治会会長の三村敏子氏が、「この町は青梅街道に面 しているから、青梅の梅と町を意味する里を組み合わせて梅里にしては」と提案し、協議の結果 、梅里は美しい名前であるし、語呂もよいので、満場一致で承認され、梅里の町名が生まれた。

 

地名の由来

杉並の地名 文化財シリーズ19から 

江戸時代の初期には既に一村をなしていて、かなり古くからの地名であるがその起由はわかない。徳川時代の始めから終わりまで、幕府直轄の天領であったが、潅漑用水に乏しく畑地の多い土地であった。

馬橋稲荷神社は以下のふたつの説をあげている。
・青梅街道南側、梅里2丁目の梅田ビルと志村ビルとの間にあった泉から流れた小川が、街道を横断して桃園川へ流れ、そこに架けてあった橋が、馬で一またぎするくらいの幅であったので、馬橋と呼ばれ、これが村名になったという説。
・阿佐ケ谷南2丁目の馬橋稲荷神社裏手の桃園川の湿地帯を、軍勢が通ったとき、馬を橋代わりにして渡ったので、馬橋の地名が生まれたという説。

馬橋稲荷神社ではこの内、後者の説を有力としている。

琺瑯町名看板 杉並区久我山3丁目19

今年(2022年)1月頃発見された琺瑯町名看板を確認しに、西荻窪駅を降りた。

旧町名の「大宮前6-307」が消滅したことは知ってはいたが、どこにあったかなと周囲を確認したが、どこにあったかわからなくなってしまった。
この琺瑯町名看板は消滅前に撮ったものがあるので、後程紹介しよう。

 

Googleフォトで訪問した足跡が分かるのだが、この辺りは探索していないことが分かった。
杉並区も探索しまくったつもりだったが、まだまだ未探索の場所がたくさんあった。
自分一人ではやはり限界があり、同好の士であるマニアの方の情報を頼りにせずにはいられない。
本当に感謝である。

自分は同好の士が苦労して発見したものを後で楽に再発見する。
ということになるが、発見した方は、狭い料簡の方はいないだろう。
だってネットで公開してくれているのだから。
ネット社会では、発見したものは、見てもらいたい、紹介したいと思うのが、自分を含めてマニアではないだろうか。
と偉そうなことを言っているが、ご容赦いただきたい。

 

発見日  2022年5月5日

発見場所 東京都杉並区久我山3丁目19

これを見て、やはり誰でも気になると思うのが「ハワイのモーニング」である。

久我山3丁目バス停は人見街道沿いにあるのだが、飲食店らしいものは見当たらない。

「モーニング」とは朝食のことではなくて、もしかしたら服のことか?
服であれば、「モーニング」とは朝から昼間にかけて着る正礼装のことである。

礼服で調べてみると「礼服のことならお任せください。繊維の都岐阜にあるフォーマル専門の総合卸商社「ハワイ商事」です。」がヒットした。

「ハワイ」の文字の形がよく似ている。

もしかしたら、「ハワイ商事」の商品を扱っている洋服店久我山バス停前にあったのかもしれない。

「ハワイ商事」のホームページの会社情報を見てみたが、そのような情報は載っていなかったので、自分の勝手な想像である。

 

歴史も記録がないものは、歴史学者や小説家の創造「creation」、想像「imagination」なのではないか?

ということで、創造、想像を楽しんでみよう。
妄想もそうだが、一人で楽しむ分には、いいのではないか。

 

消滅してしまったようだが、以前「久我山5丁目10」の琺瑯町名看板があったそうだ。それも広告主が「ハワイ商事」で「ハワイのモーニング」となっていたようだ。
これが最後の生き残りの「ハワイのモーニング」かもしれない。