歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 東京市向島區寺島町

まだ、旧町名に関心がなかったころ、この辺りも探索したことがある、ような気がする。

この建物は見覚えがある、ような気がする。

 

ここに、東京市時代のものが存在していた。

 

発見日  2022年5月12日

発見場所 東京都墨田区東向島2丁目

電話番号は(74)を含めて5桁。
振替東京とは何だ?
初めて見たような気がする。

 

一つの仮定は電話番号だった。

今でいう市外局番が、「83501」だったと考えられる。
おなじ局番「83501」の地域内なら、電話の係の人に「(74)359お願いします。」と言えば、係の人が電話を(74)359につないでくれる。
しかし、別地域の人がその電話番号にかけたければまずは係の人に「振替で東京83501番にお願いします。」と伝える。
すると東京83501番の電話局につないでもらえるので、そこで改めて「(74)359にお願いします」と言って、ようやく相手の電話がつながる。
という仕組みだったのではないか。

でも違ったようである。

よくよく調べてみると郵便振替の口座番号らしい。

わざわざこのようなところに記載する必要があったのだろうか?
しかし、当時は一般的だったのかもしれない。

このようなことも調べてみると面白いことが分かった。

 

歴史

1889年(明治22年)5月1日
町村制の施行に伴い、以下の7村の各一部が合併して寺島村が発足(カッコ内は残部の編入先)。
・寺島村(吾嬬村、大木村)
・須崎村(東京市本所区、吾嬬村、大島村)
・中ノ郷村(東京市本所区、亀戸村)
・請地村(東京市本所区、吾嬬村、大木村)
・大畑村(吾嬬村、大木村)
・若宮村(隅田村、立石村)
・隅田村(隅田村、南綾瀬村

1923年(大正12年)4月1日
寺島村が町制施行して寺島町となる。

1929年(昭和4年)5月15日
吾嬬町と町界変更。一部領域を交換して町域が確定する。

1930年(昭和5年)4月1日
これまでの大字・字を改廃して新たに大字一〜八丁目を設置。

1932年(昭和7年)10月1日
南葛飾郡全域が東京市編入。寺島町の区域は向島区となり、従来の大字一〜八丁目に「寺島町」を冠した8町を設置。

1947年(昭和22年)3月15日
向島区本所区と合併して墨田区を新設。

1965年 (昭和40年)11月30日
前年度より始まった町名変更により、最後に「八広」に変わり「寺島町」が無くなる。

 

地名の由来

「蓮花寺の縁起に彼寺は鎌倉の執権武蔵守経時鎌倉郡佐介谷に建立したりしを、息頼助弘長元年ここに引移し自ら中興開山となれり、これ村名の起れる所なり、又法泉寺の伝によれば、此寺は葛西三郎清重が開基にして村内大抵かの寺の境内なりし故この村名あり」(「新編武蔵風土記稿」)

 

写真は撮らなかったが、このプレートの前に猫がいた。

近寄ると、寝ていたのだが、こちらの気配で目が覚めたようだ。

「何だ?寝ている邪魔をするな。」と言われたようだった。

少し離れていたので、逃げようともせず、写真を撮る間見られていたような気がする。

そう猫って、すぐ逃げてしまうか、逃げなくてもこちらが去るまで、ずっとこちらを見ているよね。

 

こちらのお宅の庭に咲いていた花がきれいだった。

旧町名&琺瑯住所プレート 吾嬬町西四丁目七五番地

久しぶりに墨田区の文花(ぶんか)、京島(きょうじま)付近を探索するために訪問した。

以前は、街並みや建物に興味があったので、この辺りの古い建物の写真を撮りに訪問していた。

なつかしい。

解体された建物もあるかもしれないが、見覚えがある建物はまだ健在だった。

これが設置されている建物も、はっきりとした記憶がないが、写真に収めているはずだ。

 

発見日  2022年5月12日

発見場所 東京都墨田区京島2丁目

茶色のペンキで全体が塗られていた。

元の色はよく見るブルーだったのだろう。

 

歴史

1889年(明治22年)5月1日
町村制の施行に伴い、小村井村、葛西川村の全域と、以下の5村の各一部が合併して吾嬬村が発足(カッコ内は残部の編入先)。
・請地村(東京市本所区、寺島村、大木村)
・寺島村(寺島村、大木村)
・大畑村(寺島村、大木村)
・亀戸村(東京市本所区深川区、亀戸村、大島村)
・須崎村(東京市本所区、寺島村、大島村、大木村)

1912年(大正元年)9月1日
吾嬬村が町制施行して南葛飾郡吾嬬町となる。

1930年(昭和5年
それまでの8大字とそれに付随する小字を廃して東一〜八丁目、西一〜九丁目の17大字を設置。

1932年(昭和7年)10月1日
南葛飾郡全域が東京市編入。吾嬬町の区域は向島区となる。17大字の上に「吾嬬町」を付けた17町を設置。

1947年(昭和22年)3月15日
向島区本所区と合併して墨田区を新設。

 

地名の由来

当吾嬬町、吾嬬村の名は、近隣地域の現立花1丁目に所在する「吾嬬神社(あづまじんじゃ)」に由来する。吾嬬(あづま)は「わが妻」の意とされる。

 

上記のように向島区成立の2年前の1930年に吾嬬町内の大字小字を廃して、東一〜八丁目及び西一〜九丁目までの大字が設置されるのだが、このプレートに記載されている「西四丁目」は吾嬬町の大字である可能性があるらしい。

となるとわずか2年間しか存在しなかった超貴重な町名となる。

そして存在期間はなんと約90年となる。

 

建物に塗られていた茶色のペンキは、はげ落ちているが、このプレートは茶色のままである。
プレート上部に釘が打たれているだけで、下の木が腐っているような感じがするので、何かの拍子で落ちてしまいそうである。

建物も古いので、密集市街地解消という理由でそのうち解体されてしまう可能性も高い。

写真を撮ることによって記憶や記録には残る。

しかし、現物は消滅の一方である。

自分がこの世界に足を踏み入れたのは2年くらい前のことになるが、もう既に消滅してしまっているのもいくつかある。

いずれ消滅してしまう可能性の高い貴重な旧町名の痕跡達、言い換えると絶滅危惧種をどうにかして救えないだろうかと考える今日この頃である。

旧町名 文京区指ヶ谷町

文京区指ヶ谷町のものは、以前発見していたが、更に新しいものを発見することができたので、紹介しよう。

 

「指ヶ谷町」は何と読むだろうか?

「さがやちょう」

はずれ、だ。

正解は「さがやちょう」だ。

 

①文京区指ヶ谷町

発見日  2020年2月15日

発見場所 東京都文京区5丁目

「四三」?

木製のものは読みにくい。

大体何で表札を木で作成するのだろうか?

将来劣化して、読めなくなってしまうのではないかと思わないのだろうか?

立派な門にも木製のものをよく見かける。

木の材質により、高いものもあるかもしれないが、一般的に値段が安いという印象である。

読めていれば、もう少し旧町名が発見できるだろうにと、読めない木製の表札を見てよく思う。
それでも解読される方がいて、旧町名の新発見につながっている。

撮った写真を加工して読めるようになればいいのだが、そういう方法があるのか分からない。

ということで、自分は他の方が解読した旧町名を探索するしかない。

もっともこれは自分でも解読できるが。

 

②文京区指ヶ谷町九二番地

発見日  2022年5月9日

発見場所 東京都文京区5丁目

 

③文京区指ヶ谷町九二番地

発見日  2022年6月20日

発見場所 東京都文京区2丁目

以前、この路地は入ったことがあると思うのだが、その時は気が付かなかった。

よく見かける電話番号のプレートと似ているので、わかりにくい。

薄くてわかりにくいが、指ヶ谷の文字がよめる。

肉眼では読めたのだが、写真に撮るとだめだなあ。

 

旧町名案内

古くは、小石川村に属した。元和9年(1623)伝通院領となった。寛永(1624~44)のころには、木立の茂った谷地であった。
ある時、3代将軍家光が鷹狩に来て、「あの谷も遠からず人家ができるであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名ができたといわれる。
寛永11年(1634年)町屋ができ、指ヶ谷1丁目、2丁目、指ヶ谷南片町と称した。
明治2年、白山前町の内、千川屋敷、円乗寺、蓮華寺、浄雲寺、正福院などの門前を併せて指ヶ谷町とした。

 

指ヶ谷町小学校

1915年(大正4年)4月1日、東京市指ケ谷尋常小学校として開校。

1941年(昭和16年)4月1日、東京府東京市指ケ谷国民学校に改称。

1943年(昭和18年)7月1日、東京都指ケ谷国民学校に改称。

1947年(昭和22年)4月1日に現在の校名となる。

 

「さすがや」が正当な読みだが「さしがや」ともいわれ、区立小学校と区立保育園に「さすがやしょうがっこう」、「さしがやほいくえん」が併存している。
これは保育園設立の際に、地域名の指ヶ谷町(さすがやちょう)を聞き間違えたためと言われている。

 

指ヶ谷町小入口の信号

白いシールが貼られているのが気になる。
シールが貼られる前は何だったのだろうか?
まさか「Sasigaya Elem. Sch.」?

 

指ヶ谷町会と白山指ヶ谷町会は同じ町会だと思ったが、違うようだ。

2020年、指ヶ谷町会は100周年を迎えた。コロナ禍で記念式典は中止になり、2021年の4月に指ヶ谷町会100周年記念誌「おかげさまで百周年」を発行した。

 

指ヶ谷町会の提灯

 

白山神社にあった神輿倉

 

歴史

1869(明治2)年5月
小石川指ヶ谷南片町、小石川円乗寺門前、小石川蓮華寺門前、小石川浄雲寺門前、小石川正福院門前、千川屋敷、小石川白山前町の一部、白山御殿町の一部を合併。

1872(明治5)年8月
仲町広小路、白山御殿大通、小十人町を合併。

1878(明治11)年11月2日
東京府小石川区に所属。

1889(明治22)年5月1日
東京府東京市小石川区に所属。

1943(昭和18)年7月1日
東京都小石川区に所属。

1947(昭和22)年3月15日
東京都文京区に所属。

1964(昭和39)年8月1日
住居表示の実施により、白山一・二丁目になる。

1967(昭和42)年1月1日
残余は白山四・五丁目に編入となり消滅。


地名の由来

徳川三代将軍家光が鷹狩りに来た折りに「あの谷も遠からず人家が出来るであろう」と指し示されたことに由来している。

旧町名 東京都文京区白山前町

以前(2011年頃)から目撃情報があり、探索対象一覧にも登録していたのだが、まだ未発見だった。

探索したことがあるのか忘れてしまっているが、最近また目撃情報を見つけたので、久しぶりに白山を探索してみようと思った。

いつものように事前調査をする。
ストリートビューで確認するが、古地図で確認した住所付近は入ることができなかった。
この場合は、現地で探索するしかない。

うーん、この辺りは探索したことがあるのか記憶がない。
自分のあてにならない記憶をたどってみても仕方がない。

白山神社周辺の探索を開始する。

白山神社の境内に入ると旧町名の神輿倉庫?神輿蔵?がたくさんあった。
しばし、これに夢中になってしまった。

ふと目をやると怪しいところを発見。

あった!

 

発見日  2022年5月9日

発見場所 東京都文京区白山5丁目

 

 

旧町名案内。

 

白山前町町会の掲示

白山前町町会、白山前町々会どちらが正しいのか?

そんな細かいこと気にしないように。

 

白山前町々会の神輿倉庫

こちらは白山前町々会になっていた。

 

歴史

1869(明治2)年
小石川白山社地門前(白山表門町、白山社裏門前)、小石川数寄屋町、小石川妙清寺門前、小石川常検寺門前、小石川浄心寺門前を合併。

1872(明治5)年8月
駒込飛地鶏声ヶ窪、寺社地を合併。

1878(明治11)年11月2日
東京府小石川区に所属。

1889(明治22)年5月1日
東京府東京市小石川区に所属。

1891(明治24)年
小石川村若しくは小石川久堅町の一部を合併。

1943(昭和18)年7月1日
東京都小石川区に所属。

1947(昭和22)年3月15日
東京都文京区に所属。

1964(昭和39)年8月1日
住居表示の実施により、白山一丁目に。

1967(昭和42)年1月1日
残余は白山五丁目に編入となり消滅。

 

地名の由来

白山神社の境内の前通りにあることころから名づけられた。

水準基標 谷中霊園 東京都台東区

東京都内にある「几号水準点」はほぼ訪問した。

ニコライ堂はコロナ対策の為、いまだに入ることができない。

これを除くと市谷亀岡八幡宮を残すのみのはずだ。

中々「几号水準点」関連は紹介できていないが、今回案内板が新設されたところがあったので、紹介しよう。

 

発見日  2022年2月17日(再訪日2022年5月9日)

発見場所 東京都台東区谷中7丁目

 

この案内板は、以前訪問した時は気が付かなかったので、最近設置されたのだろう。

普段は墓石が見えるところは撮らないようにしているのだが、今回は場所が場所だけに仕方がない。

 

案内板

下の方を見ると、設置したのは、谷中霊園管理所のようだ。

自治体でも設置していない場合が多いのに、このような案内板を作成するということは素晴らしいことだ。
カラー写真も使い、素晴らしき出来だ。
このような几号水準点の案内板は見たことがない。

しかし、残念ながら、これは几号水準点ではない。

水準基標というものだ。

自分も以前は勘違いしていた。

自分には説明できない。どなたか詳しい方教えてあげてほしい。

 

これが設置されている水準基標

 

真上から見たところ。

 

案内板の矢印の向きが少しずれているが、大体で分かるだろう。

なぜここに設置したのだろうか?
水準基標の隣でいいのにと思ったが、結果的にここしかなかったのだろう。

 

当時の町名は「下谷区天王寺町」だった。
天王寺町」の痕跡は「防火用水 谷中天王寺町」で紹介している。

 

同じ東京都台東区にある浄名院の水準基標は、現在、工事中の為、移動しているのか廃棄されてしまったのかわからないが、行方不明である。  

木製仁丹町名表示板 本郷區根津須賀町 消滅 → 保護

今のところ、詳細は書けないが、ある方から、木製仁丹町名表示板が無事保護されているという連絡をいただいた。

また、この木製仁丹町名表示板が朝日新聞京都版2022年5月8日付で「古都ぶら 奇跡の1枚 東京に木版」という記事になっていることも教えていただいた。
見れる方は、是非読んでいただきたい。
永久保存版であること間違いなしである。

 

最新版といっても2022年4月4日に撮ったものだが、載せておこう。


これがまた近い将来どこかで再会できることを願っている。

電力プレート サンナミ-1 消滅!?

木製仁丹町名表示板の消滅で心ここにあらずという感じで、次の目的地である台東区の旧町名探索に向かう。
谷中眞島町の表札の無事を確認し、トボトボと歩いていたら、いつのまにかみかどパン店にたどり着いた。

遠目には変わりは感じられなかった。

近くに寄ってみる。

電力プレートは無事かなと思ってみたら、無事ではなかったのだ!

ない!

これもあるはずの所からなくなっていた。

跡だけが残っていた。
電力プレートの隣には何があったのだろう。
違うタイプの電力プレートか?

2022/5/14追記
右側にはやはり違うタイプの電力プレートがあり、中央には250-40、下部には駒込坂下が刻印されていた。

 

これがあったはずなのだ。

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もしかしたら、町名看板と同様家主の方が保管している可能性があるかもしれないが、この日はダブルショックだった。

 

この後、思うところがあって、また木製仁丹町名表示板が設置されていたところに戻るのだが、それについては、東京の木製仁丹町名表示板について(6)の後日談として書く予定である。
心が折れているので、いつになるかわからないが・・・。