歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

日光街道古河宿道標

さいたま新都心駅から宇都宮線に乗り換えて、大宮駅を出発してしばらくすると、窓の外は大雨。

家を出た時はほとんど降っていなかったのに。

県をまたげば、天気は変わるのではないかと何の根拠もなく思い、雨が止むことを期待していたが、古河駅に着いても土砂降りであった。

この中を探索するのはいくら何でも無謀なので(途中で大雨に変わった時は、そのまま探索続行したことはあるが、びしょぬれだ)、しばらく駅ビルでお土産物などを見ていた。

20~30分くらいして止んだ。

ラッキー!

さて、探索開始だ。

 

今回の最初の目的はこれだった。

古河市指定文化財・有形民俗文化財になっている「日光街道古河宿道標」である。

2020年5月、もう2年以上前のことになるが、古河宿の痕跡を探しに古河市を訪問したことがある。

その時は建物ばかり撮っていて、このような物には目もくれなかったようだ。

ようだというのは、過去に撮った写真を見返してみたが、写していなかったからである。

 

発見日  2022年9月19日

発見場所 茨城県古河市本町一丁目

2011年(平成23年)頃までは西に100mほど離れた位置、曲手通りの杉村整形病院、今の介護付老人ホーム「桃の里・古河」から道路を挟んだ正面にあり、向きも逆に北面していたそうだ。
それが突然撤去され、2014年(平成26年)秋に鍛冶町の道路拡幅工事にあわせて、現在地へ移設され、江戸期設置当初の位置に戻って来た。

 

正面(西面)

右江戸衟(みち)

 

右側面(南面)

左日光道

 

左側面(北面)

常夜灯を建てた年月や建てた人の名前、揮毫した人の名前等が刻されている。

 

裏面(東面)

隙間があまりなく、裏面が撮りにくい。

東筑波道

その下に、「下妻・結城・江川?」と地名が小さく刻まれている。

 

日光街道沿いから見て正面に「右江戸道」、右側面に「左日光道」裏面に「東筑波山」と書いたが、

当時の日光街道は一直線の道ではなく、道標のところで90度方向を変えていた。江戸方面からだと日光方面は左折、 また右は筑波山方面に向かう筑波道になっていた。
今は十字路だが、道標の後ろ・北に延びる道路は、昭和8年に作られたもので、かつては丁字路だった。

ということなので、正面は「左日光道」、右側面は東筑波山」、左側面は「右江戸道」が正しいらしい。

設置場所の関係で、このようになったのだろうけれど、この建て方だと、知らない人が見たら(自分もそうだが)正面が右江戸道となるよね。

 

上部

常夜灯だ。

上部には日光山と彫られているのが読める。

右下の像が上部が欠けてしまっている。

 

寛永十三年(一六三六)に徳川家康によって日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参の旅人などの往来でひときわ賑わうようになった。
日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当り、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた(絵図を参照)。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。
この道標は文久元年(一八六一)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか11名によって建てられたもので、常夜灯形式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外(おやまかがい)・梧岡(ごこう)・遜堂(そんどう)という父・子・孫三人の書家の揮毫(きごう)である。

平成二〇年一月

古河市教育委員会

キリスト看板 茨城県古河市

聖書に書かれている一節を書いた看板、いわゆるキリスト看板を探索途中で見かけることがよくある。

見かけるたびに撮っているが、今まで紹介してこなかった。

古河市で複数枚発見したので、紹介してみたいと思う。

 

発見日  2022年9月19日

発見場所 茨城県古河市

 

罪を悔い改めなさい

これは大きいサイズだった。

約92㎝×約42㎝

 

キリストは十字架で人の罪を負った

 

正しい人はいない

 

キリストはあなたを罪から解放する

 

神は心を見る

 

キリスト看板」を製作し、全国を回って掲示活動を続けているのは宮城県伊具郡丸森町に本部があるキリスト教系の団体「聖書配布協力会」だそうだ。

聖書配布協力会の主な活動は、以下の4つらしい。
・全国の小中学校、高等学校の児童生徒の希望者に 聖書の分冊を無料で配布。
・人が多く集まる路傍において、聖書のことばを放送。
キリスト者による個人伝道活動。
・プラカードや看板による聖書のことばの伝達。

4番目がよく知られている「キリスト看板」の設置にあたるようだ。

看板は全国に50万枚くらい設置されており、種類は100以上あるらしい。

キリスト看板掲示してもらう時は必ず家主や建物の所有者に許可を取っているそうだ。

キリスト看板掲示している家だからいって聖書配布協力会の関係者やキリスト教徒であるという事はほぼないらしい。

 

調べてみるといろいろなことが分かった。

 

今まででどの位の枚数、種類を撮ったかわからないが、いつか整理してみたいと思っている。

が、そのいつかは、いつになるかわからない・・・。

 

キリスト看板を撮るマニアの方も当然いて、自分もその一人だと思っているが、ちまたでは「キリ看マニア」と呼ばれているらしい。

今後も見かければ撮り続けていくことだろう。

小字町名 鴻巣市大字二本木

今回は埼玉県鴻巣市で発見した小字町名「二本木」を紹介しよう。

 

発見日  2020年3月13日

発見場所 埼玉県鴻巣市箕田

旧町名かと思ったが、調べてみたところ、箕田(みだ)の小字名に「二本木」があり、現存していることがわかった。
「大字二本木」はなかったようなので「箕田字」が抜けていて、本来の姿は「鴻巣市大字箕田字二本木」が正しいのかもしれない。

 

旧町名ではないが、小字名が書かれている表札は圧倒的に少数派(今まで探索したところだけだが)なので、当ブログでは現存していても紹介することにしている。

 

歴史

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行により、鴻巣宿・上生出塚村・下生出塚村の区域を以て鴻巣町が成立。
箕田村(初代)・寺谷村・八幡田村・市ノ縄村・川面村・三ッ木村・中井村が合併し発足。

1954年(昭和29年)7月1日
北足立郡田間宮村・馬室村・箕田村・北埼玉郡笠原村が新設合併し、改めて鴻巣町が発足。同日箕田村廃止。

1954年(昭和29年)9月30日
鴻巣町が北足立郡常光村を編入し市制施行、鴻巣市となる。

 

鴻巣市の「箕田」の地名の由来は調べた限りではわからなかったが、箕田源氏がらみではなのかと思っている。

「箕田」を調べていると、渡辺姓の祖、東京都港区三田にある綱坂、光源氏のモデルとなった源融などが出てくる。
更に調べていけば面白そうだが、既にいろいろな方が書かれているので、その方たちが書かれた記事を読ませていただくだけにしておこう。

旧町名 古河市観音寺町

今回は茨城県古河市の旧町名「観音寺町」を紹介しよう。

 

ところで、茨城県は何と読むのかご存じだろうか?

「いばらぎけん」?「いばらきけん」?

えっ、何が違うって?

「いばら"ぎ"」と濁るか「いばら"き"」と濁らないかだ。

正解は「いばらきけん」で、濁らない。

「茨城」を「いばらぎ」と読んでしまう原因は、「いばらき」だと主張しているはずの茨城県民のせいだ、とする説がある。
それは、「茨城弁」と呼ばれる方言だ。茨城弁には、文頭以外のカ行やタ行が濁る傾向がある。例えば「柿」は「かぎ」になり、「分からない」は「分がらない」になる。同様に考えると、「いばらき」も「いばらぎ」になってしまう。
この結果、県民自らが発音している「いばらぎ」が広まってしまい、誤解されるようになったという説だ。

ちなみに、大阪府の「茨木市」も「いばらきし」と濁らない。

 

古河市観音寺町六八〇一

発見日  2020年5月11日

発見場所 茨城県古河市錦町

 

古河市観音寺町六八三四

発見日  2022年9月19日

発見場所 茨城県古河市錦町

 

観音寺町自治

 

歴史

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行により現在の市域の町村が成立。

1950年(昭和25年)8月1日
古河町が市制を施行し、古河市となる。

1976年(昭和51年)
錦町・桜町となり、観音寺町は消滅。

2005年(平成17年)9月12日
古河市総和町三和町が合併(新設合併)し、新たに古河市となる。

 

古河の地名の由来

諸説あり。
未開地などを意味する「空閑(くが)」に由来する。
また、川沿いの浸食地形に由来するともいわれる。
万葉集東歌に「まくらがの許我の渡り」とあるのが地名の初出。これに由来するという。

観音寺町の地名の由来

調べてみたが、わからなかった。

長谷観音が由来かと思ったが、長谷町にあるので、違うようだ。

旧町名 野田上町

今回は千葉県野田市で発見した旧町名を紹介しよう。

 

発見日  2020年5月26日

発見場所 千葉県野田市野田

田上町について調べてみたが、野田人車鉄道の駅にあったくらいのことしか見つけらなかった。

野田人車鉄道(のだじんしゃてつどう)は、千葉県東葛飾郡野田町(現・野田市)に1900年から1926年まで存在した人車軌道、およびその経営会社である。町内の工場と江戸川や野田町駅(現・野田市駅)とを結び、醤油の輸送を行なっていた。

1900年12月8日、醤油工場が並ぶ野田町の目抜き通り上に敷設された本線格である野田下町-郵便局前と、下河岸へ向かう支線である田上町-今上、その途中から分岐して上河岸とを結ぶ野田栄町-中野台が開業し、これに合わせて工場・蔵への引き込み線も敷設された。

 

歴史

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行により、野田町、堤台村、中野台村、清水村の一部、上花輪村の一部、桜台村の一部、今上村の一部が合併し東葛飾郡野田町が成立する。

1950年(昭和25年)5月3日
東葛飾郡旭村、梅郷村および七福村と合併し野田市を新設する。

 

野田の地名の由来

諸説あり、有力な説に「野田右馬助という武将が館を構えたことに由来する」というものがあるが、「野田の地名を取って野田右馬助を名乗った」とする説も存在するため定かではない。

探索記録(2022年9月12日)

今回は江東区の探索で気になったものを紹介しよう。

 

亀戸の路地で見つけた石畳

 

二百二十二番地通り

調べてみたが、不明。

 

屈曲部

アパートの一角にあった。

初めて見た。

何だろう?

調べてみたところ、
車道が屈曲している箇所を指すもので、区間にわたり連続的に設置され ることが多い。 「シケイン」とも呼ばれており、一般に、車道幅員は屈曲箇所を除き一 定で、道路幅員も変化しないものが多い。

とういうものらしい。

 

水位標

この水準標は、かつて本区を襲った異状潮位を示し、水との闘いを物語るモニュメントでもある

 

五之橋北詰めの休憩スペースに設置されていたもの

①旧千葉街道

千葉街道は両国橋から堅川の北岸沿いに東へ通じ千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し、江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが明治時代からの市区改正事業などにより元愛の国鉄総武線に沿った新しい千葉街道が建設されるにいたった
 昭和三十三年十月一日 江東区第17号

 

②五之橋の説明板

五之橋の下を流れる堅川は、万治2年(1659)本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であった。
堅川の開削に合わせ西の方から、一之橋を始めとして5つの橋が架けられた。当時この付近は、畑地が多く、人の往来も少なかった。
御府内備考によれば、「御人用無益之場所」として、貞享元年(1684)、本橋は取り払われ船渡しとなったと言われている。
元禄8年(1695)、五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、「羅漢の渡し」や「五ツ目の渡し」と呼ばれ人々に親しまれてきた。
その後、明治12年(1879)に本橋が架けられたが大正12年(1923)の大震災により落橋した。
震災復興により昭和3年(1928)本橋は銅橋に架け替えられた。
戦災にも耐えた本橋は老朽化により、昭和50年(1975)再度架け替えられた。
親柱は震災復興記念として現在も残されている。
亀戸、大島地域の発展に大きな役割を果たしたこの橋は、昭和63年(1988)東京都著名橋に指定された。
平成4年(1992)3月

 

③ベンチに埋め込まれている絵と地図

五百羅漢さざえ堂と五之橋

 

本所 猿江 亀戸 村辺絵図  嘉永4年(1851年)

中央やや右上の円のところが「五之橋」で、その右に「五百羅漢さざゐ堂」が描かれている。

 

亀七南会館

石の蔵には神輿が収納されているらしい。

右側は土地を寄付された方に対する記念碑のようだ。

 

亀戸七丁目南部町会 創立75周年の貼り紙

 

町会員プレート

北砂五・六丁目のは正町会員となっている。
町会員と違いはあるのだろうか?

 

旧三大小記念公園

都営新宿線東大島駅の西側、第三大島小学校の跡地に建てられた公園。

所在地   大島7-38-9

開園年月日 平成26年7月18日

面積    2,396.24平方メートル

 

仙台堀川公園

この川は、大正10年に、砂町運河として民間の手によって開削された例の少ない運河で、その後仙台堀川と合流しました。仙台堀川は、江戸時代に仙台藩伊達氏の蔵屋敷があったことからこの名がつきました。
 仙台堀川が流れる区内と東部は特に地盤が低く、「天井川」で常に水害の危機にさらされていた地域でした。そのため防災性を考慮し、緑に重点を置き、桜並木のほか250種類の樹木約24,000本が並ぶ「区民の森」として造成しました。

 

銭湯の写真もよく撮っているが、紹介していなかった。
今後は探索記録の中で紹介していくことにしよう。

春の湯

 

二羽の鶴をあしらった懸魚(げぎょ)

懸魚(げぎょ)とは軒の下の飾り彫刻のこと。
火除けのまじないの意味が込められている。
水にちなむ龍や演技を担ぐ鶴、七福神等が多く見られる。

所在地  東京都江東区大島7丁目25-14

昭和30年頃に建てられた、昔ながらの銭湯。千鳥破風と唐破風を組み合わせた立派な造りは、稀少となった番台が今も残る昭和レトロ感満載の銭湯だ。

 

不二の湯

所在地 東京都江東区東砂8丁目20−16

創業は昭和5年、空襲の時も、地域の方の懸命な消火作業で消失をまぬがれたという奇跡的な銭湯らしい。

創業90年の建物に見えなくて、写真は撮らなかった。

 

旭湯

所在地 東京都江東区東砂7-15-1

建物が新しそうだったので写真は撮らなかった。

 

「金魚のえさ エンゼル 錦鯉のえさ スイミー」の看板

同じ所にあったものだが、色が変わっている。

 

防犯責任者

毛利さんが防犯責任者?

 

商工案内図

 

空頭標

空頭とは、道路、河川などから上空にある構造物までの高さのことらしい。

高さ制限ということなのかな。

あまり気にしたことがなかったが、これは昭和のものだった。

見かけた時は撮ることにしよう。

 

琺瑯看板「犬猫を連れて当園内に入ることを禁じます」

どこかの公園にあったもの。

 

フイルムの自動販売

当然動かないが、今となっては存在自体が珍しい。

 

テレホンカード お求めは、当店で!!

キャラクターのオウムの名前は「まり」というのかな?

 

江戸切子

見ていてほしくなったけど、高い。

旧町名&琺瑯住所プレート 杉並區下髙井戸

今回は杉並区の旧町名「下高井戸」で戦前の物と思われる痕跡を発見したので、紹介しよう。

 

発見日  2022年9月15日

発見場所 東京都杉並区下高井戸一丁目

 

①杉並區下髙井戸壹百貮拾壹番地

旧字体だらけの住所

漢数字には「一」「二」「三」と続く小字と、「壱」「弐」「参」と続く大字がある。漢数字は通常は小字を用いるが、字画が少なく改竄のおそれがあるため、重要な数字の表記では大字を用いることがある

数    漢数字    大字(現)    大字(旧)
1     一      壱        壹
2     二      弐        貳・貮
3     三      参        參

このような大字、しかも旧字体で書かれている表札は余り見掛けたことがない。

たぶんこだわりがあった方なのだろう。

 

②杉並區下髙井戸一丁目一九九番地

杉並區の琺瑯住所プレートはこれが初かもしれない。

以前は「杉並區成宗三丁目三五四番地」のものがあったようだ。
現地で確認したところ、建物の現存は確認できた。
しかし、プレートが設置されていた跡は残っていたが、現物はなくなっていた。
店内で保管しているのか、誰かにあげたのか、盗まれたのか、わからない。

 

2022年9月18日

他のものを調べているときに気が付いた。

杉並區の琺瑯住所プレートはこれが初ではなかった。

下記で馬橋のものを紹介していたのだった。

citywalk2020.hatenablog.com

今回の記事を書いた時には全く記憶の片隅にもなかった。

全くあてにならない自分の記憶だ。

う~ん。

どうしよう。

最近、ではない、前からだが、芸能人の名前がパッと出てこない。

脳トレが必要かな。

 

歴史

1889年(明治22年
町村制施行によって、「上・下・中高井戸」と、「久我山」・「大宮前新田」・「松庵」の各村が統合されて「高井戸村」となる。
「高井戸」の名が村名として採用された理由は、近郊にひろく知られていたためといわれている。

1926年(大正15年)7月1日
町制施行し、豊多摩郡高井戸町となる。

1932年(昭和7年)10月1日
東京市杉並区に新設合併される。

1969年(昭和44年)
住居表示実施により、もとの「上高井戸村」あたりは「高井戸東一~四丁目」・「高井戸西一~三丁目」・「上高井戸一~三丁目」、「下高井戸村」あたりは「下高井戸一~五丁目」・「浜田山」、そして「中高井戸村」あたりは「松庵」という町名となり、現在に至っている。

 

地名の由来

諸説あるが、かつて村内の小高い所にあった堂の傍らから水が湧き出ていて、高いところから出ていた井戸なので「高井戸」と呼ばれたという説と、地域内の宗源寺にある高井戸不動が江戸時代までは高台に祀られていて「高いお堂の不動様」と呼ばれるようになり、「高井堂不動」という名が生まれた。そこから高井戸の名が生まれたという説などがある。

 

上高井戸、下高井戸、高井戸東、高井戸西について

上高井戸、下高井戸という上下分類と高井戸東、高井戸西という東西分類の2種類が混在しているのはなぜだろうか?
上下は高井戸の前に付くのに、東西は高井戸の後ろに付くのはだろうか?

京王電鉄井の頭線高井戸駅を境に高井戸東と高井戸西に分かれる。さらに甲州街道国道20号)沿いに下(しも)高井戸と上高井戸がある。甲州街道第二の宿場町高井戸は日本橋から約16キロメートルで、下宿(しもじゅく)は下高井戸、上宿(かみじゅく)は上高井戸に設けられ、月の前半は下宿、後半は上宿が伝馬(てんま)役を受け持った。