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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

琺瑯住所プレート 江戸川區小岩町 PartⅡ

ちょうど1年前に下記の戦前の旧「江戸川區小岩町」時代の琺瑯住所プレートを紹介したことがある。

citywalk2020.hatenablog.com

 

今回、新たに3枚の戦前の旧「江戸川區小岩町」時代の琺瑯住所プレートを発見することができたので、紹介することにしよう。

 

発見日  2022年9月26日

 

①江戸川區小岩町一丁目三五九一番地

発見場所 東京都江戸川区東小岩二丁目

 

②江戸川區小岩町二丁目二八二九番地

発見場所 東京都江戸川区東小岩五丁目

ここは以前も訪問したことがあるのだが、琺瑯住所プレートがあることに気が付かなかった。

その時に建物を撮った写真を確認してみたが、上部の壁が「気泡緩衝材」に覆われていたので、見えなかった。

「気泡緩衝材」って何?

いわゆるプチプチのことだ。
「エアーバック」「エアーキャップ」「エアパッキン」「エアークッション」「エアマット」「キャプロン」「ミナパック」 などの名称でも知られている。
英語では「bubble wrap(バブルラップ)」と呼ばれている。

何で貼っていたのかわからないが、今回訪問した時は、琺瑯住所プレートの部分だけ剥がれていて、見えるようになっていた。

 

③江戸川區小岩町七丁目三七七番地

発見場所 東京都江戸川区北小岩一丁目

右下の方が腐食してしまっている。

これについては以前の記事で下記のことを書いた。

ネットで調べていたら、江戸川区北小岩町1丁目にも戦前の琺瑯住所プレートが現存している可能性があることが判明した。
ストリートビューで確認すると、店舗での営業をやめたのか、建物が随分改修されているようだ。現存が確認できれば、後日報告したい。

すっかり訪問することを忘れていて、1年たってしまった。

 

戦後の表札も何枚か発見しているが、それらは、別な機会に紹介することにしよう。

荒玉水道道路車止め

東京23区すべての区のものを投稿したつもりでいたが、今回は世田谷区単独のものではないが、何とこれが世田谷区関連初投稿になるのだった。

世田谷区も随分訪問しているのだが、何故か記事を書いていなかった。

その理由はブログを開始する前に訪問していて、開始後はあまり訪問していないからかもしれない。

世田谷区在住の読者の方、世田谷区のことを忘れているわけではない。

たぶん自分が生まれた区だ。(記憶がない、当たり前だ、親からそう聞いている。)

忘れるわけがない。

書いていないことに気が付いていなかっただけだ。

読者:どっちも同じゃない?

そうかもしれない。

いずれ記事を書く予定なので期待をしないで待っていてほしい。

読者:全然期待はしていないが、本当に書いてくれるのか?

本当だ。

そのうちに・・・。

おそらく、たぶん。

読者:英語にすると、いくつかあるが、どの程度を意味しているの?

most likely>probably>likely>maybe=perhaps>possibly

most likely(90パーセント以上)「ほぼ確実」
・probably(80パーセント以上)「十中八九」
・likely(50パーセント以上)「たぶん」
・maybe / perhaps(30~40パーセント)「もしかしたら~かもしれない」
・possibly(10パーセント程度、「ひょっとしたら~かもしれない」

 

う~ん・・・。

 

荒玉水道道路の記事の中の一部としてこの車止めのことを書いている方はいるが、ほぼこの車止めだけにフォーカスしている変人はいるのだろうか?

たぶん自分だけであろう。

境界石と勘違いして、一人で盛り上がってしまっているだけなのだが。

でもこれは車止めの意味で設置されたのだろうか?

別の場所にも

 

発見日  2022年9月15日(再訪日2022年9月17日)

発見場所 東京都杉並区下高井戸一丁目

 

甲州街道から見た風景

マンションや飲食店、民家が並んでいる

 

甲州街道方面

左側すぐが信号なので、車が中々途切れない。
人通りも思ったより多い。

随分粘って撮ったのがこの写真だ。

この写真を見ただけだと、ただ撮っているだけだろうと思われるかもしれないが、多少の苦労はしているのである。

 

右側から全体を撮ったもの

 

左側から全体を撮ったもの

 

甲州街道側から見て一番右側のもの

約70㎝×約20㎝×約20㎝

「水道局用地」の赤い文字

 

裏面

「水道局用地」の赤い文字

 

甲州街道側からから見て一番左側のもの

約87㎝×約20㎝×約20㎝

「水道局用地」の赤い文字

 

裏面

「水道局用地」の赤い文字

 

右から二番目のもの

約71㎝×約40㎝×約20㎝

 

右から三番目のもの

約56㎝×約38㎝×約20㎝

これだけ目立つようになのか黄色く塗られている。

以前はこの右側面に「東京都水道局」と書かれていたそうだ。

 

 

甲州街道側から約150m入った所の突き当り

突き抜けることはできず、その奥は京王線の線路になっている。

水道管はフェンスの先にまっすぐ続いているようだ。

この突き当りを右に曲がって、約20m進むと車道に出るので、それを左に曲がり、踏切を渡ると更に道は続く。

踏切のすぐ横が桜上水駅なので、時間帯によっては開かずの踏切になっているのではないか。
自分も渡ろうとしたが、電車が中々途切れず、随分待たされた。

 

お願い



甲州街道の上り方面は荒玉水道端バス停

高井戸駅入口ゆき

 

下り方面は一里塚バス停

浜田山駅南ゆき

ほぼ対面にあるだが、下高井戸駅入口ゆきと浜田山駅南ゆきでバス停名が異なっている。

 

ここからは世田谷区

荒玉水道道路沿いにあった水道用地境界石

 

水道用地のスペースがあった

柵がたくさん建てられている。

 

注意

ここは水道用地ですから「入ら」ないでください。

と書いてある。

「」の位置がおかしい。

 

荒玉水道道路

東京都杉並区梅里〜世田谷区喜多見の都道428号(高円寺砧浄水場線)の通称が、荒玉水道道路(あらたますいどうどうろ)。道路の地下に荒玉水道の送水管が埋設されている水道道路。送水管が直線的に敷設されているので、道路も東京屈指の直線道路になっている。

荒玉水道道路妙法寺西側・杉並区立堀ノ内三丁目公園前から都道3号(世田谷町田線)のにぶつかる手前の交差点(世田谷区立砧小学校北側)まで、7.74kmにも及ぶ直線道路で、東京23区内では随一の直線道路になっている。

 

杉並区側に2本ほど「水道局用地」と書かれた石柱があるそうなので、調べてみた。

・杉並区立郷土博物館入口交差点→2022年8月のストリートビューで残っていた。
・大宮馬頭観世音の対向→2022年8月のストリートビューではなくなっていた。撤去されてしまったようだ。

さらに調べていたところ、現存しているのかわからないが、杉並区高円寺2丁目の住宅街の中に荒玉水道の複排気弁や世田谷区喜多見2丁目の東京都水道局砧浄水場(砧上浄水場)の正門前に荒玉水道町村組合のマンホールがあるそうだ。

情報を見つけてしまったからには、再調査の上、いずれ訪問しなければいけないな。

小字町名 松戸市岩瀬字○○

松戸市の岩瀬は現存している町名で、小字が付いているが、旧町名ではないと思われるので、小字町名としている。

どれか忘れたが、激坂の下の住宅地にあった。

この辺りもスリバチ地形のような感じだが、「千葉スリバチの達人」や「千葉凸凹地図」に掲載されているのだろうか。

 

発見日  2022年9月22日

発見場所 千葉県松戸市岩瀬

 

松戸市岩瀬字塚田608-7

「塚田」には相模台小学校があり、こちらは宇宙飛行士の山崎直子さんの母校だそうだ。

 

松戸市岩瀬字向山593-2

「向山」は、谷を挟んで向いの山ということを意味していると思われるので、「相模台」の向いというより、北側の根本城のあった「根本」の台地の向いの山という意味と考えられるのかもしれない。

 

③岩瀬相模台266-3

『松戸の歴史案内』(松下邦夫著)によれば、 「建長元年(一二四九)に、房総三ヵ国の守護北条武蔵守長時が上総国山辺郡松之郷村と、松戸市の岩瀬村に城を築き、数代にわたってその家臣達が居城したといいます。 嘉歴元年(一三二六)になると、北条相模守高時が入道して崇鑑と号し、岩瀬に居城します。こうしたことでこの地が『相模台』といわれる様になったという訳です。」 とある。

 

松戸駅東口のこの辺りは小弓公方足利義明が奮戦ののちに討ち取られた相模台城(別名岩瀬城)だったそうだ。

往時を偲ばせるものはほとんどないらしいが、聖徳大学構内に「相模台戦跡碑」の石碑と、この合戦での落命した足利義明親子兄弟を弔ったと言われる「経世塚」があるらしい。

 

松戸中央公園内にある「相模台の変遷」に少しだけ説明が書いてあった。

この地、相模台は戦国時代の天文七年十月小田原の北条氏と里見氏等が合戦した(国府台の戦い)激戦地であるといわれている。
その後この地は幾多の変遷を経て大正八年には陸軍工兵学校が開設されて以来太平洋戦争終結の昭和二十年まで存続し教育終了者は各所に配属され工兵の街松戸は、広く知られるようになった。公園入口の門柱と門衛は工兵学校当時のなごりをとどめている。

 

地名の由来

江戸期は岩瀬村。地名は江戸川に流れ込む細流(瀬)と当地特有の褐鉄鉱岩盤が出土することから、この瀬・岩が組み合わされたことによるという。また往時はもっと河川に近く、そこから命名されたものか。「岩瀬」とは石の多い川瀬をいう地名で、渡渉地点として用いられたとみられる。

平潟遊郭道標 千葉県松戸市

松戸駅を降りた時、この道標を探索することを忘れていた。

事前の調査で、存在を確認していたのたが、所在地まで確認していなかった。

それで探索対象からも記憶からも漏れていたのだった。

しかし、これを探すでもなく適当に歩いていたところ、偶然発見することができた。

 

水堰橋を渡る。

 

右下に道標が見える。

 

タイトルの「平潟遊郭道標」は正式名称ではない。調べてみてもただ「道標」とあるだけだったので、自分が便宜上付けた名称である。

 

発見日  2022年9月22日(再訪日2022年9月29日)

発見場所 千葉県松戸市根本

 

道標

 

上部

左右を示す指の絵、なかなかユニークである。

左 右と彫られている。

 

中央部

薄くて読みにくいところもあるが、以下の文字が彫られている。

流山
   道
野田 

平泻
   道
遊郭

 

この道標も「平潟」ではなく「平泻」となっている。

「潟」の略字「泻」「潟(臼の部分が旧)」は秋田の大潟、松江の白潟などにも使用習慣があるらしい。

このような地域の実情や文化的背景を元に作った文字のことを地域文字という。方言漢字とも呼ばれるものだ。

松戸市の平潟も仲間に入れてほしいが、旧町名ではだめだろうなあ。

 

下部

これも読みにくい。

本川岸組合

「根本川岸組合」を調べてみたが、情報を見つけることができなかった。

 

道標の側面や裏面には何も彫られていなかった。

 

裏面

 

真上

道路の片隅によく撤去されずに残っていたものだ。
ここは公道上なのだろうか、それとも角地で隅切りされているので、谷口ビルの私有地なのだろうか?
ビルの私有地だとするとオーナーが残すようにしたのかもしれない。

平潟遊郭の名前が現物として残っているのは、これだけであると思われるので、平潟遊郭の痕跡としてこのまま残してもらえるとありがたい。

 

以前は「センダンヤ松戸シティホテル(旧ホテル千壇家)」の入口にも道標があったそうだ。
近年改修工事を行われたようなのだが、その時から行方不明らしい。
案内板もあり、以下が記載されていたそうだ。

道しるべ

この道標は大正末期根本川岸道路改修事業が行われたときに建てられたもの
江戸から水戸街道を下り葛飾橋を渡ると松戸宿です
松戸根本で坂川に懸る松の木橋を渡り坂川に沿って流山街道にでて野田に通じる道と 一方平潟遊郭を経て江戸川の小向渡(百姓の渡し)に至る道の分岐点が千壇家前でした

右 流山 野田道
            根本川岸組合
左 平潟遊郭 小向渡道

 

ここで紹介した道標も大正末期の同時期に建てられたのかもしれない。

 

2022年9月29日

「センダンヤ松戸シティホテル(旧ホテル千壇家)」を探していたが、すぐに見つからず、随分離れた所まで行ってしまった。

地図を確認する。

あれっ、さっき通った所だった。

元の道を引き返す。

えっ‼

解体中であった。

気が付かなかったはずだ。

 

中を覗けるところがあったので、覗いてみると、「SENDAN-YA WEEKLY」の文字が見えた。

解体工事は7/5(火)からスタートしたそうだ。

工事完了は来年2023年3月末を予定しているようだ。

これで「センダンヤ松戸シティホテル」の入口にあった道標は永遠の謎になってしまった。

旧町名 松戸市三丁目

「三丁目」だけ?

何か抜けているんじゃないの?

と思うが、かつてこのような町名があったのである。

 

発見場所 千葉県松戸市松戸

 

松戸市三丁目七二七番地

発見日 2020年6月2日

 

松戸市三丁目一〇九八

発見日 2022年9月22日

 

松戸市三丁目千五番地

発見日 2022年9月29日

 

松戸市三丁目一一〇一

発見日 2022年9月29日

 

松戸市三丁目一一〇四番地

発見日 2022年9月29日

 

松戸市三丁目3-1016

発見日 2022年9月29日

 

⑦松戸3丁目1804

発見日 2022年9月22日

 

⑧松戸3丁目1108

発見日 2022年9月29日

松戸市大字松戸字三丁目」で検索するとヒットしないが、「松戸市松戸字三丁目」で検索するとヒットするので、正式には「松戸市松戸字三丁目」なのかな。

 

自治

 

松戸3丁目公園

記念碑

公園開設の記念碑のようだ。

記念碑がおにぎりっぽいので通称「おにぎり公園」と呼ばれているそうだ。

 

松戸宿 坂川の歴史

笹が生い茂っており、下の方が見えない。

 

古くからここには水路があり、街道をよこぎっていた。
橋は水戸橋と呼ばれていたとつたえられている。
のちに、かわの名を坂川、橋の名を春雨橋と言う。
松戸宿はこのあたりから下横町渡し船場までが繁華街で、街道の東側は田畑が広がっていた。
米が豊富な宿場では餅菓子や煎餅などを売る店も多かったと言われている。

 

この地図は江戸時代の松戸宿のものだと思われるが、中央付近に三丁目の文字が見える。

 

一丁目から三丁目は江戸時代から存在していた古い町名だった。

調べてみると「丁目」という町名は17世紀頃にはあったようだ。

そんな昔からあったとは、びっくりぽんだ。

江戸時代初期に書かれた三浦浄心『慶長見聞集』の「本町二丁目の滝山彌次兵衛」という用例が、また『慶長江戸図』などの地図に「○丁目」の表記があり、17世紀初頭には既に「丁目」という言葉が使われていたようである。

旧町名 松戸市平潟

今回は千葉県松戸市を久しぶりに訪問した。

秋葉原駅から総武線に乗り、両国駅前で気が付く。

そう、乗る電車を間違ってしまったのである。

総武線では松戸駅には行けない、総武線では最初の千葉県の駅は市川駅である。

市川市でもよかったのだが、何の事前調査をしていなかった。

そこで、乗換案内で調べると秋葉原に戻れとスマホは言う。

秋葉原駅から日暮里駅まで行って、そこで総武線に乗り換えろとの指示だ。

へいへいと素直に従う。

両国駅で降り、秋葉原駅へ戻る。

ちょうど来た山手線に乗る。

上野駅に着くと、1分ほど停車するとのアナウンスがあった。

そうだ、総武線上野駅からも乗り換えられる。

ということで、上野駅で降り、総武線に乗り換えて、松戸駅まで行くことにした。

 

元平潟遊郭付近にレトロな電柱が10本ほど現存しているとの情報を得て、これを探索して発見することが今回松戸市訪問の目的の一つだった。
以前もこの辺りは探索したことがあるのだが、その時は、電柱は探索の対象していなかった。
電柱については発見することができたので、別な記事で紹介することにし、今回は電柱探索中に発見した旧町名「平潟」を紹介しよう。

 

発見場所 千葉県松戸市松戸

 

松戸市平泻2033-8

発見日 2022年9月22日

「潟」の略字「泻」が使われている。

「新潟」の「潟」だが、自分はうまく書けない。

この略字は知らなかったが、略字の方が当然書きやすい。

「泻」は他県民からみれば新潟県民にしか使われない「謎の漢字」らしいが、ここでも使われていた。

新潟県内では地元民が手書きで「潟」と書く際に、難しい字体のため使うことが多いとの事。

この略字は新潟で生まれたものではないらしく「三省堂」によれば、正確には「新潟にだけ残った略字」らしい。

江戸時代、全国で刊行されていた辞書「節用集」に記載されるなど全国的にメジャーな略字なのだが、明治時代に入り出版物の活版印刷が定着した際、販売用の活字一覧表には正しい「潟」の字しか記載されず、全国に流通するすべての印刷物で「潟」が使われた。それに伴い、この略字は全国から徐々に姿を消していったようだ。 
しかし、全国で唯一、地名を書くために日常的に「潟」を使う新潟だけ、この略字が使われ続けてきたということらしい。

 

ちなみに「潟」の書き順は以下の通り。

潟」の書き順 | 漢字の書き順

潟」の書き順(筆順)動画 - 漢字書き順辞典

たぶんこの通り書いていたと思うが、めったに書くことがないので怪しい。

 

次は今のところ千葉県でも松戸市でしか見たことがない住所プレートだ。

松戸市が配布した住居表示プレートなのだろうか?

松戸市では住居表示制度を行っていないので、住居表示プレートの表示義務はないとのことだが、あちこちでよく見かけるものだ。

 

②平潟2055

発見日 2022年9月22日

欠けているが、たぶん「2」だろう。

 

③平潟2210

発見日 2022年9月22日

 

④千葉県松戸市平潟2074

発見日 2022年9月29日

 

平潟公園

発見日 2022年9月22日

昭和34年開園ということは売春防止法施行後まもなく開園したことになる。

 

アパート名

発見日 2022年9月29日

 

事業計画公開板

発見日 2022年9月29日

松戸市松戸字平潟となっている。

 

駐車場

 

電信柱

発見日 2022年9月29日

 

平潟神社の狛犬

発見日 2022年9月29日

松戸町時代のものだ。

逢菜家の鈴木亀右衛門が奉納した。

 

歴史

1889年(明治22年
町村制施行により、松戸町・明村・八柱村・高木村・馬橋村・小金町が誕生

1933年(昭和8年
松戸町と明町(が合併

1938年(昭和13年
松戸町と八柱町が合併

1943年(昭和18年
松戸町、高木町、馬橋町が合併し、松戸市が誕生

 

地名の由来

船溜まりに都合の良い広い干潟が名の由来。

昔の江戸川はこの付近で大きく蛇行し、一帯は大きな干潟になっていた。潟の付近は流れも緩く船の停泊に具合の良いことから河岸として発展し、船問屋や舟運関係の小屋が立ち並んでいた。享保16年(1731)江戸川の付け替えで河岸が移転するまではここが本河岸と呼ばれ、のちに松戸宿が舟運物流の要衝となるための基礎になった場所でもある。

電力プレート ニチヨメ-3

今回は、茨城県で初めてかつ古河市で初めて発見した電力プレートを紹介しよう。

古河市は2年位前にも訪問したことがあり、この電力プレートが設置されている建物の写真を撮ったことがあるのだが、その時は電力プレートに関心がなかったので、気が付かなかった。

 

発見日  2022年9月19日

発見場所 茨城県古河市本町二丁目

ニチヨメ?

近くにある街区表示板を見ると「本町二丁目」となっているので、「ニチョウメ」の略のようだ。

しかし古河市に「二丁目」は旭町二丁目、けやき平二丁目、中央町二丁目、東二丁目、東本町二丁目、三杉町二丁目、横山町二丁目と多数あり、どこの「二丁目」かわからなくなってしまう。

なぜ「ホンチヨウ」にしなかったのだろうか?

「ホンチヨウ」だと古河市局管内で重複するからか?

調べてみると、この辺りはかつて「二丁目」と呼ばれていたことがあったようだ。

江戸時代、古河城下・古河宿の中心は日光街道に面した町通りで、南から台町・一丁目・二丁目・横町。つまり、これらの町通りの中心部を2つに分けて、一丁目、二丁目としたものだ。特に二丁目は、今では古河駅から西に直進した突き当り・足利銀行常陽銀行付近からその北側に伸びた通りに相当するが、本陣や高札場、脇本陣が集まっていた。

三丁目・四丁目・五丁目もあるが、これらは比較的新しい町名で、昭和13年(1938)、神宮寺・尊勝院の間から、横町東側の空地を通って、今の松並町に抜ける道路がつくられて生まれた町で、江戸時代にはなかった。一丁目・二丁目の延長として、名付けられたものなのだろう。

 

下記は高札場跡だが、説明板に「二丁目」と記載されているところがあった。

高札場と本陣

 日光道中の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目と呼ばれたこの辺であった。文化四年(一八〇七)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
 高札場は、幕府からの法令を掲げたところである。
 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめとして、高用役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は百十七・五坪(約四百平方メートル)もあった。本陣・脇本陣は最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
 問屋は、人足二十五人、馬二十五疋を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも三~四軒あって、交代で業務にあたっていた。
 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(二丁目曲の手 ※1)、横町(野木町 ※2)と続き、道巾は五間四尺(約十メートル)ほど、延長十七町五十五間(約千八百五十メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べていた。

※1 江戸時代初期には、横町と呼ばれていた。
※2 江戸時代初期には、野木町と呼ばれていた。

 令和三年三月  

 古河市教育委員会

 

以下は平成元年3月版の案内板

日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化4年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
 高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府機関の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は117・5坪(約400平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
 問屋は、人足25人、馬25匹を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも3~4軒あって、交代で事にあたっていた。
 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道巾は5間4尺(約10メートル)ほど、延長17町55間(約1850メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。

 

本題とは関係ないが、最新版と比較してみるとおもしろい。

 

説明文を長々と載せてしまった。

過去に二丁目の町名があったことは確認できたが、町名の変遷は、わからなかった。

それなので、自分としての結論は「本町二丁目」になる前に「二丁目」という町名があったことによるのだろうということにしておこう。