歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名&電力プレート 台東区谷中初音町

台東区谷中は何回も探索したことがある。

旧町名に関する新しい発見はもうないと思っていた。

でもあったのだ。

初見の「谷中初音町」の電力プレート(④)が。

以前発見したものもあるので合わせて紹介することにしよう。

 

台東区谷中初音町四ノ一六〇

発見日  2021年5月1日

発見場所 東京都台東区谷中

 

②ヤナハツ-8

発見日  2021年10月5日

発見場所 東京都台東区谷中

 

③ヤナハツ-29

発見日  2021年10月23日

発見場所 東京都台東区谷中

 

④ヤナハツ-34

発見日  2023年1月21日

発見場所 東京都台東区谷中

電力量計のコードが邪魔で全体は見えない。

 

⑤ヤナハツ-39

発見日  2021年10月23日

発見場所 東京都台東区谷中

木製のレトロ電柱に設置されている。

 

⑤初四会々員

2021年10月23日

「初四」は「谷中初音町四丁目」の略であることにようやく気が付いた。

 

谷中初音町四丁目の旧町名由来案内は2種類あった。

旧町名由来案内 旧 谷中初音町四丁目①

明治二年(一八六九)本町は一丁目から三丁目として誕生した。同四年、江戸時代から六阿彌陀横町または切手町とわれた武家地が初音四丁目として加わった。さらに同二十四年、初音町四丁目は谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併し町域を大きくした。
町名は、この付近に鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
「東京都モデル商店街第一号」
日暮里から千駄木方面に登る坂が「御殿坂」。そして下ったところに「谷中銀座」がある。谷中銀座は戦後いち早く復興に着手し、近隣商店街としてよみ返った。昭和五十八年には「東京都モデル商店街第一号」の指定を受けたカラー舗装、アーチなどの整備が行なわれ近代的商店街となった。

 

旧町名由来案内 旧 谷中初音町四丁目②

町名は、本校内に鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治二年(一八六九)のことである。同四年、江戸時代から六阿彌陀横町または切手町とわれた武家地が初音四丁目になり加わった。さらに同二十四年、初音町四丁目は谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併し、初音町としての町域を確定した。
本町には、かつて日本近代美術の先覚者岡倉天心が住んでいた。明治三十年(一八九七)東京大学卒業後、文部省に勤めたが同二十二年、東京美術学校を開設するなどして日本近代美術の振興につとめた。その天心の旧居跡が現在の岡倉天心記念公園である。公園正面の六角堂には本区名誉区民・芸術院会員であった平櫛田中作の「岡倉天心先生坐像」が安置されている。

 

歴史

本町は1869(明治2)年、江戸時代の町名を改めて、一~三丁目に分けられて誕生。

一丁目は、1869(明治2)年、1702(元禄15)年に町屋開設を願い出て許された谷中天王寺門前町が改称して起立。1871(明治4)年、南北に2分されたが、1873(明治6)年には旧に復し、1891(明治24)年には谷中町、谷中三崎町の各一部を併合。
二丁目は、1869(明治2)年、1704(元禄17)年に町屋開設を許された谷中天王寺門前町が改称して起立。
三丁目は、1869(明治2)年、1648(慶安元)年に町屋が形成された谷中天王寺門前町が改称して起立。1873(明治6)年に近隣の地を併合。1889(明治22)~1891(明治24)年には一部を谷中三崎町に編入し、同時に谷中七面前町と谷中片町を併合。
四丁目は、1871(明治4)年、俗に六阿弥陀横町或いは御切手町と称する地域を町域として起立。

1878(明治11)年11月2日
東京府下谷区に所属。

1889(明治22)年5月1日
東京府東京市下谷区に所属。

1889(明治22)年若しくは1891(明治24)年
三丁目が東京府北豊島郡谷中村、日暮里村駒込村の各一部を編入

1943(昭和18)年7月1日
東京都下谷区に所属。

1947(昭和22)年3月15日
東京都台東区に所属。

1967(昭和42)年1月1日
住居表示の実施により、一丁目は現行の谷中五・六丁目に、二丁目は谷中七丁目に、三丁目は谷中五、七丁目に、四丁目は谷中三、五丁目に編入となり消滅。

 

地名の由来

鶯の初音に因み、後の四丁目に「鶯谷」と呼ばれる所があることから命名された。

徳林寺の貫通石 埼玉県狭山市

狭山市を探索していると曲がり角にお地蔵さんが3体いた。

後ろの看板の「ここを入る」の文字の上には、

歴史の道 鎌倉街道 

武蔵野観音霊

福聚山 徳林寺

第17番札所

と書かれている。(写真は撮らなかった。)

 

この角を曲がると鎌倉街道らしい。

曲がってみよう。

 

井戸があった。

ここに矢吹ジョー?とリンゴをかじっている・・・、誰だっけ?
確かこのような顔をした人もいたような気がする。
そうだ!
マンモス西ではないか。
と1人で盛り上がってしまった。

 

この井戸がある近くに掲示板があり、


日本のカエル展示
(本堂の階段下)

トンネル工事
貫通石展示
徳林寺境内

の貼り紙が目に留まった。(これも写真がない)

 

蛙と貫通石がお寺に?

なぜ?

 

ということで徳林寺に立ち寄ってみることにした。

 

訪問日  2022年11月28日

訪問場所 埼玉県狭山市入間川2-3-11

 

徳林寺

狭山市ホームページより

創立年代は、はっきりしませんが、入間市金子・瑞泉院末といわれ、開山は瑞泉院三世一樹存松和尚で、開基は小沢主税であると伝えられています。開山一樹存松は天文2年(1533年)に入寂しており、永正乃至享禄(1504年~1532年)頃の創立と考えられます。
当寺の旧地については、旧登記所(入間川2丁目19番地)北方の低地であるとの伝えがあり、新田義貞足利基氏らの滞陣の跡であるとの伝承もあります。また、武蔵野33観音霊場の第17番札所でもあります。
寺宝の絹本着色釈迦涅槃図・絹本着色釈迦八相図は、市指定文化財です。

 

カエルは探したが見つからず。

ネットで調べてみたところ「日本各地から集めたというカエルの置物がたくさん飾られていた。」という記事を見つけたので、本物のカエルではなく置物だったようである。

 

境内に入ると大量の貫通石が飾られていた。

ここで貫通石というものの存在を初めて知った。

やはりマニアの方はすごい。

これだけ集めるのは大変だっただろう。

それをまた展示するためにお寺もよくこんな立派な施設を作ったものだ。

 

これを見るまでは、徳林寺のどこかでトンネル工事をして、その工事で削り取られた大きな円筒形の石が展示されているのかと思っていたのだが、全然違っていた。

 

上の大量ある展示物の内、関東地方にあるものを一部だけ撮った。

 

浅間山トンネル(群馬県

「あさまやま」トンネルと読むと思っていたが、「せんげんやま」トンネルと読むそうだ。
浅間山」は「あさまやま」と読むのになぜだろう?

調べたが分からず。

上信越自動車道入山工事」と書いてあって「入山トンネル」も書いてある。

東京方面から行くと「浅間山トンネル」の次に「入山トンネル」がある。

浅間山トンネル」とあるがこれはどちらのトンネルから出たものなんだろう?

 

浅間山トンネル」から連続してトンネルが9本あり、「1/9」のようにトンネル本数が分数標示されているそうだ。

1/9 浅間山トンネル    680m

2/9 入山トンネル     480m

3/9 稲村山トンネル    110m

4/9 北野牧トンネル    190m

5/9 高岩山トンネル    1,070m

6/9 大山トンネル        1,630m

7/9 日暮山トンネル  2,050m

8/9 八風山トンネル  4,470m

9/9 閼伽流山トンネル 1,960m

 

青梅トンネル(東京都)

 

美の山トンネル(埼玉県)

長さ1614m

 

下佐久間トンネル(千葉県)

石は見えないが「安産の石の由来」が書かれている。

富津館山道路

完成時期    2001年

長さ410m

 

関越トンネル

 

トンネル位置図

ここに書かれてるトンネルの貫通石があるということかな。

 

全国に名高いトンネル工事の奇石「貫通石」の公開

今から約30年以上前に、あの「黒部の太陽」(主演・石原裕次郎さん)や「海峡」(主演・高倉健さん)などに代表されるトンネル工事を完成させた凄まじい映画がありました。
未知なる大地中深きに人間が足を踏み入れ、自然の崇高な尊厳と気力に対し、知恵と技術と身命をもって掘り進み、トンネルを貫通させた地点から奇石として僅かに持ち帰った貴重な記念石を、「貫通石」と申します。
徳林寺では、この貴重な「貫通石」を永きに亘り所蔵され、大事に秘蔵されてきた平山嘉一様(当山檀徒並びに役員) よりの寄贈を受け、その数約150点の中から、この度その一部をここに公開する事にいたしました。
「貫通石」は単なる記念石ではなく、 難治難遇の果てに人と自然との出会が成し得た、 その時々の慶事と感激を讃美し、自然の気迫に果敢に挑んだ結果の代償でありましょう。そのため 「貫通石」のもつ風水利益を受け、艱難突破の奇石を守護石として大願成就を期し、 貫通(願いを貫き通す)の祈願として合格祈願・安産祈願・交通安全等の諸祈願を託したいと思います。

 

「狭山ふるさとガイドブック2020」には以下のような記載があった。
「貫通石:徳林寺の境内にトンネル工事で採取した貫通石約130点が展示されています。石(意志)を貫く意から、受験や安産の祈願やお守りになると言われています。」 

JOBK聴取章 in 京都市

JOAK東京放送局)の聴取章は発見しているが、京都市でJOBK(大阪放送局)の聴取章を発見した。

 

発見日  2022年11月13日

発見場所 京都市京都府下京区

 

 

1926年(大正15年)8月20日
東京・大阪・名古屋放送局の3法人が解散、社団法人日本放送協会が発足。
各放送局はそれぞれ関東・関西・東海支部となる。

 

この聴取章は関西支部時代のもので、昭和初期に設置されたもののようだ。

 

京都市内は古い建物が多く残されているので、探せばもっと見つかりそうだ。

埼玉県加須市で発見した電力プレート

昨年、埼玉県再訪問ツアーを実施した。

前日、どこか行くところないかなーと埼玉県の地図を見ていたところ、加須市が再訪問ツアーから漏れていたことが判明した。

前回はいつ訪問したのだろう?

調べたところ、約3年前であった。

3年前に訪問した時は、古民家が中心で、まだ旧町名や電力プレートに関心がなかった頃だったので、見向きもしなかった。今回再訪問したところ、見覚えのある建物で電力プレートを発見することが出来た。

 

①カゾシモ-10

発見日  2023年1月19日

発見場所 埼玉県加須市本町

「カゾシモ」は「加須下」?

旧町名にも小字名にも現町名にもないようだ。

ということは通称町名なのかもしれない。

 

②ライハ-3

発見日  2023年1月19日

発見場所 埼玉県加須市土手一丁目

「ライハ」?

そんな町名あったのか?

漢字が全然思いつかない。

 

しばらくたってからである。

歩いているとバス停があった。

通り過ぎる。

あれ!

引き返す。

「礼羽」の文字があった。

こういう字を書くのか。

どこかで見た記憶がある。

それは街灯に貼られていた商店会の名前だった。

「礼羽」は加須駅の南口方面に現存している町名なので、旧町名ではなかった。

 

地名の由来

この地に居館していた礼羽次郎という武士の名から起こったという説もあるが、水平で低い土地を意味するアイヌ語の“ライパ”から付けられたとする説もある。

 

礼羽425付近の畑の脇に「伝承 礼羽館」の標柱があるらしい。

吾妻鏡」によると建保元年(1213)5月2日に和田義盛が挙兵し鎌倉幕府を襲撃しました。その際、義盛の3男義秀の乱入を防ごうとして義秀に討たれた武士の中に礼羽氏の礼羽蓬乗の名がみえます。礼羽には番場、早道場、沖坊など礼羽氏に関する地名がみられます。このあたりは礼羽氏の館があったところと古くから言い伝えられています。礼羽氏が館を構えたのでその地名がついたのか、地名をとってその姓にしたのかは不明ですが、礼羽氏とこの地は深い関わりがあります。
平成元年3月   加須市教育委員会

 

加須市の歴史

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行により、北埼玉郡加須町・久下村が合併し、加須町となる。久下村は加須町の大字となる。
町村制施行により、礼羽村、馬内村が合併し北埼玉郡羽村が成立する。

1954年(昭和29年)5月3日
北埼玉郡加須町・不動岡町・三俣村・礼羽村大桑村・水深村・樋遣川村・志多見村が合併し市制施行、加須市となる。

2010年(平成22年)3月23日
(旧)加須市北埼玉郡騎西町大利根町・北川辺町と新設合併し、新たに加須市となる。

さいたま市浦和区針ヶ谷の旧中山道沿いで発見した琺瑯看板・プレート

北浦和駅から与野駅の間の旧中山道には、いくつか古い建物が残っている。

それらは別の機会で紹介することにして、今回は旧中山道沿いで発見した琺瑯看板やプレートを紹介することにしよう。

 

今のところ、自分としてはここでしか見たことがないものばかりのものだ。

 

発見日 2023年1月5日

 

埼玉新聞

現在も発行されているので、それほどレアとは思えないが、自分では初見のもの。

「悠久の思い出」さんには新聞②(一枚貼)には掲載されていなかったが、新聞①(複数張り)に掲載されていた。

ということで、やはりレアなものではなかった。

 

毎日小学生新聞 毎日中学生新聞

毎日小学生新聞
1936年12月22日
大阪毎日新聞社(現・毎日新聞大阪本社)から「大毎小学生新聞」として創刊。

1943年
「大阪毎日新聞」が「東京日日新聞」と紙面合同をして「毎日新聞」となったのに伴って、両小学生新聞も合併して「毎日小学生新聞」となった。

 

毎日中学生新聞
1949年11月16日創刊

2006年3月31日付の発行を最後に休刊
要因は少子化の影響やインターネット等の普及などによる発行部数の低迷とのこと。

 

これは「悠久の思い出」さんの新聞①(複数張り)にも、新聞②(一枚貼)にも掲載されていないようだ。

ということはレアなものかもしれない。

 

③米飯提供○○ 昭和39年度 登録済店

○○は店舗のような気がするが確信はない。

調べたてみたが、何のプレートかわからず。

 

④浦和地方交通

「浦交」のマーク

これも何のプレートかわからず。

 

今の時代、ネットで調べれば大体のものは何かしらわかるものだが、まだこのようなものも存在している。

下町風俗資料館付設展示場(旧吉田屋酒店)で発見した旧町名

先日、下町風俗資料館付設展示場(旧吉田屋酒店)で発見した琺瑯看板を紹介した。

citywalk2020.hatenablog.com

 

今回は旧町名を紹介しよう。

琺瑯看板を紹介している方はたくさんいるだろうけど、展示されているものの中からほとんどの方が関心を寄せないと思われる旧町名に気が付いて、それを紹介するのは当ブログくらいではないか?

知らんけど。

 

訪問日  2023年1月7日

訪問場所 東京都台東区上野桜木二丁目10番6号

 

東京市下谷区谷中茶屋町三番地

旧町名由来案内「旧 谷中茶屋町」より

明治二年、天王寺表門前新茶屋町が改められ、谷中茶屋町が誕生した。
天王寺は、応永の頃(1394~1427)に草創され、日蓮宗長陽耀山感応寺と号していたが、元禄十二年(1699)、幕府の命令により天台宗に改められた。そのため檀家が離れて寺の運営はおもわしくなくなり、同十五年、住職の仏頂院は経営立て直しのため茶屋町を造るべく、寺社奉行に町屋の開設を願い出た。翌十六年に許可され、感応寺表門新茶屋町ができた。その後、天保十四年(1843)に、感応寺が天王寺に改称したことから、町名も天王寺表門前新茶屋町に改められた。
明治以降、茶屋町という華やかな街から、次第に住宅街へとかわってきた。

 

歴史

1878年明治11年)11月2日
東京府下谷区に所属。

1889年(明治22年)5月1日
東京府東京市下谷区に所属。

1943年(昭和18年)7月1日
東京都下谷区に所属。

1947年(昭和22年)3月15日
東京都台東区に所属。

1967年(昭和42年)1月1日
住居表示の実施により、西隅が谷中六丁目4番、残りの町域が現行の谷中六・七丁目に編入となり消滅。

 

②武陽入間郡霞ヶ関

武陽は武州、埼玉県のことだろうか?

入間郡霞ヶ関は現在の川越市霞ヶ関のことだろう。

でも、なぜ銘柄が「琵琶湖」なのたろうか?

調べてみたが、川越市霞ヶ関に小林本店という醸造元は見つからず、「琵琶湖」という日本酒を製造していた醸造元も見つからなかった。

調べ方を変えてみよう。

登録商標を調べてみたところ、お酒(第33類)に「琵琶湖」の商標が登録されているようだ。この登録商標は、大正8年(1919年)8月13日に登録され、21世紀になった今も商標権として存在しているらしい。

ヤフーオークションで「琵琶湖」の白い空き瓶が3,000円で売られていた。この看板に描かれているものと同じものだった。しかし、長島屋支店と書かれており、小林本店ではない。

歴史

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行により、的場村、笠幡村、安比奈新田の3か村が合併、高麗郡霞ヶ関村が成立。

1896年(明治29年)4月1日
高麗郡入間郡編入入間郡霞ヶ関村となる。

1952年(昭和27年)
鶴ヶ島村(現・鶴ヶ島市)大字大田ヶ谷の一部を編入。同時に霞ヶ関村大字笠幡の一部を鶴ヶ島村に編入

1955年(昭和30年)4月1日
川越市編入

 

③摂津灘御影町

 泉仙介は兵庫県神戸市東灘区に本社を置く日本酒メーカー泉酒造の創業者のようだ。

 

歴史

1889年(明治22年
町村制公布にともない、菟原郡に属する御影村・郡家村・石屋村・東明村の4か村(および高羽村飛び地)が合併して御影町となった。

1950年(昭和25年)4月1日
御影町は全域が神戸市に編入され、東灘区の一部となった。

旧町名 浦和市北浦和町

現町名は町が取れただけなので面白みはないのだが、新たに今まで気が付かなかったものを発見したので、紹介することにした。

 

浦和市北浦和町一丁目

北浦和町一丁目十八番地

発見日 2020年2月1日

 

北浦和町一丁目一四一番地

発見日 2020年2月6日

 

北浦和町二丁目

北浦和町2の85

発見日 2023年1月3日

 

北浦和町三丁目

北浦和町三丁目九〇番地

発見日 2020年9月20日

 

北浦和町三丁目一三〇番地
発見日 2021年3月14日

 

発見日 2023年1月5日

家屋調査済証に北浦和町三丁目時代のものを発見。

下にNHKの放送聴取章があった。

 

歴史

1943年(昭和18年
大字針ヶ谷、大字領家の一部から針ヶ谷町一丁目〜四丁目と北浦和町一丁目〜五丁目になる。これは住居表示とは別の町名変更である。

1967年(昭和42年)9月1日
北浦和町一丁目から五丁目が住居表示の実施により、北浦和一丁目〜五丁目になる。

 

この記事を書いていて、まだ四丁目と五丁目を発見できていないことに気が付いた。

今まで気が付かなかっただけで、残っているかもしれない。

旧町名の痕跡はひとつ見つれければいいんじゃないの?

そうかもしれないのだけど、そこはマニア。

気が済まないのだ。

東口の一丁目から三丁目は住宅地だが、四丁目と五丁目は西口にあり、あまり民家がある印象がない。

発見できる可能性は少ないかもしれないが、今まであまり真剣に探索していないので、探してみよう。

 

2023年1月9日、早速探してきた。

表札は発見できなかったが、家屋調査済証に北浦和町五丁目時代のものを発見できた。

 

2023年1月17日

四丁目は民家が少なく、痕跡を発見することはできなかった。