歩・探・見・感

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旧町名 武州足立郡髙埇郷本太村

発見日  2021年1月21日

発見場所 埼玉県さいたま市浦和区本太3丁目

今回は武州足立郡髙埇(たかはな)郷本太村である。

写真では大きく見えるが、実物はそれほど大きくない。表札ではないが、表札みたいなものということで取り上げてみたい。

モザイクが入っているのは、私が写ってしまっているからである。このように反射する素材は、どうやって撮影したらいいのだろう?
今後もこのようなことがあるかもしれないが、解決するまで、ご容赦いただきたい。

重要なのは地名なので、名称は見えなくても問題ないが、「松原観音堂」と記載されている。

さて、この地名について考察していこう。

これも江戸時代の地名か?
以前「武蔵国足立郡中尾村」を取り上げたことがあるが、「武州」と「武蔵国」は違うのか?
調べてみると、「武州」は「武蔵国」の別称であることが分かった。使い分けはどうしていたのかと気になることもいくつかあるが、本題と離れるので、ここでは、触れない。

歴史は、江戸時代以前まで遡ることになる。

江戸時代以前
本太村の範囲は、現在のさいたま市浦和区前地、本太、元町の全域で、室町時代には髙埇郷に属していた。
※高埇は高鼻とも記される。

江戸時代
足立郡浦和領に属する本太村であった。

明治以降は、
1871年(明治4年)11月13日 第1次府県統合により埼玉県の管轄となる。
1879年(明治12年)3月17日 郡区町村編制法により成立した北足立郡に属す。
1889年(明治22年)4月1日  町村制施行により、上木崎、下木崎、駒場、瀬ヶ崎、針ヶ谷、本太、北袋、木崎領領家が合併し、木崎村が成立。本太村は木崎村の大字本太となる。
1932年(昭和7年)4月1日  木崎村が谷田村と共に浦和町へ編入され、浦和町の大字となる。
1934年(昭和9年)2月11日  浦和町が市制を施行し、浦和市となり、浦和市の大字となる。
2001年(平成13年)5月1日  浦和市与野市、大宮市と合併しさいたま市となり、さいたま市の町名となる。
2003年(平成15年)4月1日  さいたま市政令指定都市に移行し、さいたま市浦和の町名となる。

武蔵国足立郡中尾村」とどちらが古いかというと、江戸時代以前から本太村は存在していたようなので、江戸時代に成立した中尾村より古いと思われるが、どうなのだろうか?

これは、いつ頃制作されたのかわからないが、それほど古いものではないかと思われる。ストリートビューで一番古い2008年3月の画像で確認したところ、すでに設置されていたので、これ以前に設置されたのだろう。

こんな地名まで確認する人は、自分のようなマニアくらいしかいないと思うが、ここがかつてこのような地名だったという証跡を刻んでくれたことは、ありがたいことだ。

 

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話はそれるが、この近くに敷地内に長屋門を構える3軒続きの屋敷がある。そのうち1軒の長屋門は青みがかっていて、他では見かけない。これらは別な機会に紹介したいと思う。

松原観音堂について

創建年代等は不詳。

「新編武蔵風土記稿」より
(元太村)

観音堂
正観音を安ず、村民の持、

とあり、個人の堂宇だったようだ。現在も個人の敷地内に建てられている。

「新編武蔵風土記稿」は1810年(文化7年)に起稿され、は1830年(文政13年)に完成したそうなので、観音堂はこの時代には存在していたことになる。