今のところ、旧浦和市内でも、この横長の形をした住所プレートは、「文蔵」でしか見かけたことがない。
ちなみに「文蔵」は「ぶんぞう」ではなく「ぶぞう」と読む。難読地名の一つになっているようだ。
琺瑯町名看板でも「文蔵」を紹介しているが、そこでは、町名の歴史には触れていなかったので、ここで触れてみたい。
もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡浦和領に属する文蔵村であった。
1871年(明治4年)11月13日
第1次府県統合により埼玉県の管轄となる。
1879年(明治12年)3月17日
郡区町村編制法により成立した北足立郡に属す。
1889年(明治22年)4月1日
町村制により「文蔵村」が周辺の白幡、辻、根岸、沼影、別所の村々が合併し、六辻村が成立。六辻村の大字文蔵となる。
1938年(昭和13年)7月1日
六辻村が町制施行し、六辻町になる。六辻町の大字となる。
1942年(昭和17年)4月1日
六辻町が浦和市に編入合併され、浦和市の大字となる。
1968年(昭和43年)7月2日
土地改良事業が完了したことから大字文蔵と大字辻の各一部から文蔵三丁目と四丁目が成立する。
1980年(昭和55年)11月1日
大字文蔵が住居表示実施により文蔵一丁目〜五丁目に分かれる。京浜東北線より東側の地区を南浦和四丁目に分割、また、同日神明一・二丁目の一部となる。これにより大字文蔵は消滅。
2001年(平成13年)
浦和市が大宮市、与野市と合併しさいたま市となる。さいたま市の町丁となる。
2003年(平成15年)
さいたま市が政令指定都市に移行し、さいたま市南区の町丁となる。
「文蔵」の歴史は以上となるが、1968年に文蔵三丁目と四丁目が成立、1980年に大字文蔵が住居表示実施により文蔵一丁目〜五丁目に分かれるとあり、一丁目と二丁目の方が後にできたというのはどういうことなのだろう?
いろいろ事情があったのだろうとしか言えない。
さて、金属住所プレートを見ていこう。
①文蔵1593番地
発見日 2020年9月10日
発見場所 埼玉県さいたま市南区文蔵2丁目
「文蔵」の文字と「1593番地」の間にスペースがあるが、丁目が入るスペースもなく、何も見えないので、「文蔵1593番地」と判断している。
①と②どちらが早く設置されたかわからないが、②より錆の進行が遅いようである。
②の方が古いのか?それとも、設置場所の違いか?
②文蔵4丁目414番地
発見日 2020年9月10日
発見場所 埼玉県さいたま市南区文蔵5丁目
住所プレート上は、文蔵4丁目とあるが、設置されていたのは、文蔵5丁目である。
文字の回りは全体的に錆びているが、文字はペンキが何かで書かれているおかげか、まだ読むことができる。
1980年の住居表示の際に文蔵3・4丁目の旧区域は現在の文蔵3〜5丁目に分割されたので、このように混在することになったのだと思われる。