歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

電力プレート シモアカ-10

発見日  2021年9月30日

発見場所 東京板橋区赤塚7丁目

茶色のペンキで塗られており、更に右側一部が見えないのが残念だが、これでも貴重な電力プレートの生き残りだ。残してくれていることに感謝したい。

これは「下赤塚町」時代のものだと考えられる。

「下赤塚」は東武東上線の駅名「下赤塚駅」として残っているが、町名は1972年(昭和47年)に消滅している。

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「下赤塚町」の歴史を一部だがたどってみよう。

室町時代中期 - 末期頃
赤塚村が上赤塚村、下赤塚村、石成村に、徳丸村が徳丸本村、徳丸脇村、徳丸四葉村に分かれ、赤塚六ヶ村と呼ばれるようになる。

間が空きすぎだが・・・、いきなり明治になる。

1889年(明治22年
市制町村制が開始されると、赤塚六ヶ村は合併されて赤塚村となり、各村は大字上赤塚、大字下赤塚、大字成増、大字徳丸本、大字徳丸脇、大字四ッ葉となった。

1932年(昭和7年
板橋区の成立時にはそれぞれ上赤塚町、下赤塚町、成増町、徳丸本町、徳丸町、四ッ葉町となった。

1969年(昭和44年)3月1日
住居表示実施により、下赤塚町等から赤塚1丁目から赤塚1丁目、新赤塚1丁目から新赤塚3丁目が成立。

1972年(昭和47年)12月1日
住居表示実施により、下赤塚町から大門が成立、下赤塚町の町名消滅。

「上谷津」、「番匠免」を町会の掲示板で見かけたが、調べたところ、かつての字名だったようである。

地名の由来

松月院(赤塚八丁目)の門前あたりに、古墳時代の地元の有力者と思われる被葬者不明の円墳 (塚)があったとされる。 この塚は、人々に恐れられ、白山社の祠などが祭られていたという。但し1892年(明治25年)に記念碑を造成する際に壊されてしまい、いま円墳(塚)は残っていない。

この円墳(塚)は、江戸時代に成立した『新編武蔵国風土記稿』に「豊島郡荒墓郷荒墓」と記録される。この「荒墓」が、墓=塚で「荒塚」と呼ばれ、「赤塚」に転訛したとする説がある。

また荒墓の盛り土が関東ローム層の赤土であったから、あるいは土地が赤く見えたことからであるという指摘も一部にある。