発見日 2021年10月21日
発見場所 東京都新宿区高田馬場4丁目
この表札が設置されているマンションは道の突き当りにあるのだが、前回は左に行ってしまい、発見することができなかった。
前回は、どこに設置されているかもはっきりとわかっていなく、かつ、この写真のように蔦のような植物に覆われているので、前を通ったとしても気が付かなかったかもしれない。
今回は、事前に設置場所であるマンションと位置を確認して訪問したので、すぐ見つけることができた。
葉っぱが邪魔で、表札の全景が撮れないなので、写真を撮る時、少し移動させてもらった。
撮影後は、元に戻しておいたのは、言うまでもない。
この種類の植物は、たぶん冬になっても枯れない。切らない限り、どんどん成長して、そのうち完全に見えなくなってしまいそうだ。
この表札には、焼け焦げたような跡があるのがわかるだろうか。
これは、戦争の痕跡ではないかという方がいたので、調べてみた。
戦前から存在していたと思われるので、十分その可能性はある。
1945年(昭和20年)5月25日に山の手に470機ものB29が来襲(山の手大空襲)し、四谷・牛込・淀橋区の大半が焼失したそうだ。
新宿区のホームページの「区の歴史」に次のような記述があった。
昭和20年5月から8月にかけての東京大空襲は本区の様相を一変させてしまいました。戦前華やかだった新宿駅周辺、四谷、神楽坂、高田馬場も焼野原となり、本区の大部分の地域が焼失してしまいました。戦災前、旧3区の戸数は6万3295戸を数えていましたが、戦時中の建物疎開や戦災で5万6459戸を失い、6836戸を残すのみとなり、人口も戦前は約40万人近くありましたが、終戦時には約7万8000人と減少してしまいました。
この表札が設置されているのは、現高田馬場4丁目なので、焼け野原になっていた可能性がある。
日本地図株式会社の「コンサイス 東京都35區 區分地圖帖」の復刻版を所有しているのだが、確かに、旧戸塚町3丁目のほぼ全域が焼失していることが確認できる。
本当によく残っていたものだ。
小さいものだが、貴重な戦争遺跡の一つだと思われる。
戦争の悲惨な記憶を刻んだこの表札を「無言の語り部」として今後も残していただければと切に思う。
沿革
1889年(明治22年)5月1日
町村制施行により、下戸塚村、源兵衛村、諏訪村、戸塚村および高田村飛地が合併し、南豊島郡戸塚村が発足。
1896年(明治29年)4月1日
南豊島郡が東多摩郡と合併して豊多摩郡となる。
1914年(大正3年)1月1日
町制施行して戸塚町となる。
1932年(昭和7年)10月1日
東京市に編入され消滅、淀橋区の一部となる。
1947年(昭和22年)3月15日
新宿区は四谷・牛込・淀橋区が統合して成立した。
1975年(昭和50年)
住居表示実施により下記の町丁に変更された。
・高田馬場一丁目、二丁目、三丁目、四丁目
・西早稲田一丁目、二丁目、三丁目
・戸塚町一丁目
地名の由来
次の諸説がある。
・昔洪水の時、ここばかりは「戸」をもって支えたように、水害から免れたことから。
・昔宝泉寺の境内に富塚という塚があった。後に富を戸にしたことから。
・旧岡本某の邸古い塚があり、白狐が住んでいたので、狐塚といわれていた。これが転じて戸塚となった。
・昔、この辺には、古塚が多くあったので十塚が転じて戸塚となった。
・喜久井町に供養塚があった。この塚を富塚といっていたものが転じて戸塚となった。
・源義家が凱旋の時に「かぶと」を埋めたので、かぶと塚と言ったのが転じて戸塚となった。
参照
Wikipedia
新宿区ホームぺージ
コンサイス 東京都35區 區分地圖帖