歩・探・見・感

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旧町名 東京府西多摩郡青梅町

今回は青梅市の成立の歴史から始まる。

明治11年(1878)の郡区町村編制法により、多摩郡は四分割され、東京府に属する地域が東多摩郡、神奈川県に属する地域が、府中番場宿(府中宿のうち)ほか1町131村の区域をもって北多摩郡、青梅町ほか1町93村の区域をもって西多摩郡、八王子横山宿ほか126村の区域をもって南多摩郡(いわゆる三多摩)となった。
三多摩は、江戸時代以来、江戸・東京の水がめだった。
明治10年代に、東京府は、東京府民の水道・水源を確保・管理するため、三多摩を東京に編入しようとしたが、神奈川県に反対され、実現しなかった。

明治22年(1889)に甲武(こうぶ)鉄道(現在のJR中央線)が新宿から八王子まで開通すると、東京と三多摩との結びつきが急速に強まった。
そこで、明治26年(1893)、三多摩東京府編入する法律案が帝国議会に提出され、可決成立した。
同年4月1日、北多摩・西多摩・南多摩郡東京府編入が実現した。

1889年(明治22年)4月1日
町村制の施行に伴い、青梅町、勝沼村、西分村、日向和田村が合併して神奈川県西多摩郡青梅町が発足。

1893年明治26年)4月1日
東京府へ移管。

1943年(昭和18年)7月1日
東京都制施行。

1951年(昭和26年)4月1日
霞村、調布村との合併により青梅市が発足。同日青梅町廃止

 

発見日  2020年11月26日

発見場所 東京都青梅市

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この表札は、青梅町が廃止されたのが1951年なので、70年以上の歴史があると考えられる。

1年近く前なので、どのあたりに設置してあったか忘れてしまった。
当時は、旧町名探索というより、街並みと琺瑯町名看板探索中心だったので、この写真をどうして撮ろうとしたのか、記憶にない。

古い建物を探しに青梅街道のかなり先まで歩いた記憶がよみがえる。
その時は、1本道だったので、さすがに自転車を利用すればよかったかなと思った。

青梅市は、江戸時代には石灰や綿織物の産地として、また青梅街道の旅人や御嶽山への参拝者が集まる宿場町として栄えた。
現在でも旧青梅街道沿いを中心に、古い町家や看板建築が点在している。

琺瑯町名看板の目撃情報は4枚あるが、その内2枚(青梅335、西分110)は確認できている。
2枚は未確認。未確認のうち1枚(青梅162)は、消滅したようだ。
もう1枚は目撃情報の写真が蔦のようなものに絡まれており、何と記載されているか不明で、従ってどこにあるかも不明。

 

地名の由来
諸説あるが、承平年間に平将門が市内天ヶ瀬(あまがせ)に所在する金剛寺を訪れた際、馬の鞭に使用していた梅の枝を自ら地に挿し、「我願い成就あらば栄ふべし。しからずば枯れよかし。」と願をかけたところ、見事に梅の枝は根付き結実するが、夏を過ぎても実は青いまま熟さずに、また、地に落ちることもなく枝に残ってたという将門誓いの梅の伝説によるものが広く知られている。

 

参照
Wikpedia

国立公文書館 -変貌-江戸から帝都そして首都へ 35. 三多摩東京府編入