歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 東京府北多摩郡三鷹村牟禮

ビジネス用語になるが「レッドオーシャン」、「ブルーオーシャン」という言葉をご存じだろうか?
2005年に刊行された『ブルー・オーシャン戦略ー競争のない世界を創造する』の中で提唱された概念だそうだ。
ブルーオーシャンとは、競争相手のいない未開拓市場のことで、文字通り「のどかで穏やかな青い海」のような市場のことで、競合がひしめき合う激しい競争状態にある既存市場のことを「レッドオーシャン」と呼ぶ。

これを旧町名探索に例えてみると、自治体によって濃淡があると思われるので、完全に区分けすることはできないが、「東京23区内」はほぼ「レッドオーシャン」化されており、「東京23区外」の市町村はまだまだ「ブルーオーシャン」に近いと言えるのではないだろうか?
それぞれ「東京23区内」でも都心から離れている世田谷区、練馬区江戸川区葛飾区、足立区などは完全に「レッドオーシャン」化されておらず、「東京23区外」でも武蔵野市三鷹市など23区に隣接している自治体は「ブルーオーシャン」から「レッドオーシャン」に進行中のような感じがする。

最近「武蔵野市」や「三鷹市」の23区外に進出してきたのは「ブルーオーシャン」を期待していたのだが、上記のように「レッドオーシャン」に進行中なので、既に目撃情報もいくつか上がっていた。

今回も目撃情報があったものだが、「東京府北多摩郡」のものなので、紹介しないわけにはいかないだろう。

 

目撃情報があったからと言って簡単に見つかるものと中々見つからないものがある。
今回は後者であった。

目撃情報のヒント「売地」を頼りにストリートビューで事前調査をするが、場所を特定することができなかった。
その場合は地道な現地調査となる。

この表札は井の頭2丁目にあるということは分かっていたので、いつものようにローラー作戦を開始したのだが、結果から言うと失敗に終わった。
井の頭2丁目は京王井の頭線の線路南側から玉川上水の間だけにあると思って探索していた。
ローラー作戦終了間近に「売地」があり、そこで立ち話をしている人達がいて「きれいにしていただいてありがとう。」というような言葉が聞こえた。
門柱があったと思われる場所に門柱がないので、撤去してしまったのかと思った。
整地をしたことに「ありがとう。」と言ったのだと思ってしまい、消滅してしまったのかとがっかり肩を落として帰途に着くため吉祥寺駅に向かった。

家に帰って「売地」になっていた場所をストリートビューで確認してみたところ、ここではなかったことが判明した。
よかった!
そこで「井の頭2丁目」、「売地」で検索してみるとヒットした土地が見つかった。
そこに掲載されている写真を見ると、この表札が設置されている門柱が写っていた。
更にストリートビューでも確認してみると、これだ!
あった!
ただ「売地」なので、すでに売れてしまっていて、門柱は壊されてしまっているかもしれない。

はやる心を押さえて2回目の探索を行うことにした。
2回目の探索は新宿から特別快速に乗ってしまったため、途中で乗り換えるのも何なので、三鷹駅を降りて付近を探索してから本題の表札の探索をすることにした。
途中経緯は省略するが、三鷹台駅神田川の北側の井の頭2丁目の杉並区との区界の道沿いにこれがあった。

 

発見日  2021年11月13日

発見場所 東京都三鷹市井の頭2丁目

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この表札が設置されている門柱は微妙な位置にあった。
右側は売地なのだが、売地情報を見た所、296.5m2(89.69坪)で驚きの2億円、223.0万円/坪だそうだ。
左側は名称が見当たらなかったのでわからないが、マンションかアパートだ。
その建物を仮にマンションとしておくが、門柱はそのマンションの塀にくっついていた。
でもよく境界線を見ると明らかにこの売地側に設置されている。
ということは、この土地が売れてしまうと、その買主の意向によって、どうなるか決まってしまうことになる。
旧町名に理解がある買主であれば、残してもらえるのだが・・・、そちらにかけることにしよう。

 

三鷹市牟礼地区は三鷹市域でも初期の村で、1559年編纂の小田原衆所領役帳には「無連」としてすでに地名が載ってたそうで、1590年頃に牟礼村として成立したとされており、現在の「井の頭」も含む範囲だった。
当時は「牟礼」や「無礼」(あるいは礼の旧字「禮」)のどちらも使われていたようだが、『三鷹市史補・資料編』によれば、1816年に無礼村を牟礼村に統一して使用するよう許可された以降、「牟礼(禮)村」に統一されている。

 

沿革
1889年(明治22年
町村制の施行で、上連雀下連雀・井口新田・深大寺新田・大沢・野崎・新川・中仙川・北野・牟礼の10カ村が合併し、神奈川県北多摩郡三鷹村となる。

1893年明治26年
三鷹村が東京府へ移管される。

1940年(昭和15年
町制施行により北多摩郡三鷹町となる。

1950年(昭和25年)11月3日
市制施行により三鷹市となる。

 

「井の頭のあらまし」の中の「三鷹市の歴史・村々のなりたち・牟礼村」には下記の文章が掲載されているので、少し長いが引用させていただいた。
「井の頭から南のほう、玉川上水をこして、三鷹台団地から久我山、烏山のさかいまでが牟礼村であった。
  牟礼と書いてムレと読む。牟はあまりなじみのない字である。そこで、ムレの音に字をあてたように思われがちで、アイヌ語などから地名ができたのではないか、などといわれたこともあった。小田原北条時代の「小田原北条分限帳」に、「大橋九貫文無連高井堂」と書いてあり、この無連が牟礼、高井堂が高井戸のことと読まれている。江戸時代になると無礼村と書かれることが多くなっているが、文化十三年(一八一六)に、「無礼村」という文字を書いているが、古い時代使っていた「牟礼村」と改める、という趣旨の文章も残っている。また、鎌倉時代に牟礼氏というものが居住していたから、牟礼居野といったとか、牟礼居とは、集まり居るの意味だとか、ともいわれている。
  ムレはムラと同じで、集落をさす古語であるとするのが妥当ではないだろうか。古く大陸からの移住者が開いたといわれる玉川中流の狛江郷や深大寺の地とつながるものとして理解したい。」