歩・探・見・感

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電力プレート ホン1-4

発見日  2021年11月22日

発見場所 埼玉県久喜市本町5丁目

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「久喜」は「くき」と読む。

東京電力久喜支社管轄の電力プレートは初発見であった。
久喜支社は現存しているのかと調べてみたが、なくなっていた。
現在、久喜市は春日部支社の担当地域のようである。
東京電力の支社の過去の統廃合がどのようになっているのか気になったので、調べてみたが、わからなかった。

この電力プレートは今は「提灯祭り通り」という愛称がある久喜駅前通り(県道六万部(ろくまんぶ)久喜停車場線旧道)沿いの古民家に設置されていた。

「提灯祭り通り」は久喜市の「久喜の提灯祭り(ちょうちんまつり)」から付けられたものらしい。
この祭りは、200年以上の歴史を持ち、提灯の数が、本一(久喜)のものが516個と地上を運行する山車1台当たりに飾られる同一規格の提灯の数が日本一だそうだ。

だんだん電力プレートのは話題から遠ざかってきた。
電力プレートが存在していることは重要だが、「本町」という町名は当たり前すぎて、おもしろくもなんともないので、このような展開になってしまった。

それより県道の「六万部(ろくまんぶ)」の名称とは何かと気になってしょうがないので、さっそく調べてみた。
これは町名かもしれないと思い、調べてみたところ、東北自動車道沿いに現存していることが確認できた。
町名の由来は、『埼玉県地名誌 名義の研究 改訂新版』(韮塚一三郎著 北辰図書 1977)に下記の記述がある。
「六万部は古くは上清久村の内であったが、慶安四年(一六五一)同村の民が三十余軒この地に移って来てから一村をなしたという(「新記」)。六万部の名は往古この地に法華塚があり、六万部の供養塔があったのでその名が生じた(「新記」)。」

更に、六万部について『久喜史市調査報告書 第二集 清久村郷土誌』(久喜史市編さん室 昭和59年2月 )に下記の記述があった。

経塚(口碑) 六万部字本村にあり。聖武天皇の御宇僧行基東国を巡遊してこの地に来り、河原井沼の辺りに観音堂を建立し経文六万部を蔵めて去る。土民之を機とし、相謀りて傍に一寺を建つ六万部と称す。もって行基菩薩の功徳を唱え、六万部経転読する事年あり。経塚ほその経を埋めし所たりとも云い転読供養塔の跡ならんとも云えり。寺は今の清久尋常高等小学校の東北に接せし地にして南北朝時代迄存せしがついに焼失せり。今なお当時の古石を発掘せらる。観音堂は現今橋本其の所有にしていつの頃にか納めし額に

 『お経塚村の名に呼ぶ六万部 今読みわたす橋本の堂』

とあり。これをもって案ずるに橋本家は旧家にしてあるいは六万部寺の住職の子孫ならんかと思わる。

電力プレートから別な旧町名の話題になってしまったが、いろいろつながりを調べていくもの面白い。