大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)の水面に反射する太陽の光の粒達
なんと幻想的な風景だ。
日光街道の近くを流れているのがこの大落古利根川である。
大落古利根川は、徳川家康江戸入府以前の利根川であり、文禄3年(1594)に会之川が羽生市上新郷で、元和7年(1621)に浅間川が久喜市高柳で締め切られ上流を失ったものである。その後排水路となる。
「大落」 とは農業排水を落とす幹線排水路の意味である。
発見日 2021年12月2日
満聚山九品寺(くほんじ)
曹洞宗の寺院だ。
創建年代は不詳である。
上の写真の左端にあるものが、今回の主役「道しるべ」である。
これは、日光街道の道しるべで右側が表面で「青面金剛」、台座に三猿 左側に「左日光」の文字が刻まれている。
背面には庚申塔が建てられた「天明四甲辰歳十一月吉日」とこれを彫った「松伏領新川村 石工星野常久」の文字が刻まれている。
天明四年は、浅間山大噴火の翌年である。
日光街道の道しるべ
この道しるべは、天明4年(1784)堤根村の農民42人が協力して、新川村(春日部市)の石工・星野常久に作らせ、江戸と日光方面を知らせた。また、この向かい側の高野家が、立場を営み、馬で荷物を運ぶ人・駕籠をかつぐ人・旅人・馬などが休む場所となっていたので、この道しるべを多くの人が見ながら旅を続けていたと思われる。
この石塔は、庚申の夜、人間の身体にあって人を短命にするという、三尸を除いて、青面金剛に疫病の予防治療と長生きができるように祈る庚申信仰を表すものであり、道しるべを兼ねたものである。
なお、見ざる・聞かざる・言わざるは、三尸になぞらえ、眼や耳や口をふさいで悪事を天の神に報告させないという意味がある。
「右江戸」
小文字で「武州葛飾郡幸手領堤根村」
と刻まれている。
「右江戸」と書かれた面を江戸の方向(南)に向けると正面は西向きになるので、かつては街道の向かい側に立てられていたものと考えられる。
上の写真だと光が入ってよくわからないが、この写真でもわかりにくいかもしれないが、台座の左端を見ると、「不」の文字があることが分かる。
そうだ「高低測量几号」である。
横棒8.9cm、縦棒9.9cm、横棒の幅1.3cm。
台座に刻まれている高低測量几号は、庚申塔を建てた堤根村講中の人たちの名前の一部に重ねて彫られているそうだが、見た時は、そこまで気が付かなかった。
「明治の始め、庶民の過去の風習を否定し、近代化を推し進めた役人たちの強引さの一端が伺える。」と述べられている方がいたが、この面でなければならなかったのだろうか?
台座の他の面はどうなっているかわからないが、何も彫られていない面があったのであれば、そこに彫ればよかったと思うだが。
向きの関係で、それができなかったのだろうか?
それとも意図的にこの面に彫ったのだろうか?
上の方の意見によって、意図的にこの面に彫ったのではないかとも思えてきた。