歩・探・見・感

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女郎仏(妙延寺) 埼玉県川口市

昨日(2021年12月13日)は風が強くて(平均風速5.2m、最大風速8.8m、最大瞬間風速14.2m)寒かったが、今日は(2021年12月14日)はさいたま市でも10時頃雪が降った。雨は3時過ぎに止み、晴れ間も見えたが、寒い1日(最高気温6.3度、最低気温2.0度)だった。

 

この日は川口市の旧町名の探索がメインだったが、途中に非常に変わった名称の寺があったので、立ち寄ってみることにした。

 

撮影日  2021年12月14日

撮影場所 埼玉県川口市石神967

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女郎仏?
こんな名前を仏様の名前にして、こんな目立つでかい看板にしていいのかと思ったが、いろいろいわれがあったのだった。

 

女郎仏の由来

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女郎仏の由来
 女郎仏は、この近在ではだれ一人として知らぬ者のないほど知られた仏であり、昔から下の病に霊験あらたかであると人々の信仰を集めている。
 由来については、資料がなく、昔からの言い伝えのみであるが、最も信ずべき石井栄助 氏の書き残された記録によると、寛政二年(一七九〇)三月一日暴風雨があり、翌日、村役人が土手山という官林を見回りに行ったところ
 山の中から若い女のすすり泣く声が聞こえてくるので、行ってみると、十八 九歳位の気品卑しからぬ女性が病に倒れ、苦しんでおり、いろいろ事情を尋ねてみたが、病い重く、言葉も絶え絶えで、手掛かりとなる所持品もなく、どこの者ともわからぬため、仮小屋を造り、手当てをしたが、その効果もなく、五日後に息を引きとってしまった。この女の人を葬ったのが女郎仏である。
 女郎仏とは、その女性があまりにも美しく、可憐なて女であり、身分を明かさなかったので、もしや女郎ではなかったかとのことからいわれるようになったと思われる。
川口市観光協会

 

画鋲で止められている説明書きが、破れてしまっている。
このような場合は、川口観光協会に連絡すればいいだろうか?

だいたい、自治体が紙で説明書きを作成することが間違っているのではないか。
まあ、地元の方以外で訪問される方というのは、神社仏閣マニアの方たち位と思っていたが、桜がきれいだそうなので、お花見に来る人達もいるかもしれない。
しかし、周りに何もないところなので、このような扱いになってしまうのもわからなくもないが、せめて新しい紙にしてもらえればなと思う。

 

「この近在ではだれ一人として知らぬ者のないほど知られた仏であり」とあるが、地下鉄が開通し、新興住宅が多くなってきたので、今では知らない人も多くなってきたのではないだろうか?

 

女郎仏の参道

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女郎仏は、長年の念願が叶い、1953年(昭和28年)に真言宗智山派妙延寺として正式に認証された。

 

この女性については諸説ある。
①悪い病(梅毒)にかかった(川越あたりの)女郎
②上臈(じょうろう、身分や地位の高い女性)、由緒ある者の落人
③越後新発田藩主の落胤で由あって帰る途中に不慮の災厄に遭った

 

腰から下の病に効果があるというので、大正期には祈願者が多く、「塔婆と額を納める者その数、数千あり、額は重ねて山なし、木の塔婆は垣として数千間、幾重にもさしてあり」と記されている。(「新篇鳩ヶ谷の歴史」より)

 

以前は鳩ヶ谷(現川口市)からも多くの人が御参りに訪れたそうだ。戦前戦後を通じて日本中が貧しかった頃、病気になった人は、医者にもかかれず、最後の心の拠り所として、病気が軽くなるように、辛くないように、歩けない人はリヤカーや荷車に乗せて、女郎仏にお願いに行ったそうだ。

 

妙延寺の縁起

創立は寛政2年(1790年)、石井伝右衛門によって開基された。もとは蕨三学院の末寺であり、現在も三学院住職が兼務している。(「埼玉宗教名鑑」より)

稲荷社<川口市石神五〇三(石神字稲荷丸)>
石神の新町にお女郎仏と呼ばれる堂があり、寛政のころ(一七八九-一八〇一)、美しい女性が当地の土手山という所に捨てられていたのを、見つけた村人が介抱したものの息を引き取ったので、供養のために祀ったものと伝えられている。この女性は、悪い病にかかった吉原の女郎とも、由緒ある者の落人ともいわれ昭和初期までは下の病に霊験があるとして花柳界の信仰が厚かった。今では、花柳界の参詣こそないが皮膚病や腫れ物によく御利益があるといい、多くの参詣者がある。なお、お女郎仏は、昭和二十八年に妙延寺と称して宗教法人になったが、実際の世話は石神第一自治会が行っている。(「埼玉の神社:川口市3稲荷社」より)

 

他にも「女郎」が付く神社仏閣があるのかと調べてみたら、いくつか見つかった。

古寿老稲荷神社 東京都港区高輪1-18-11
昔、麻布飯倉片町の付近に鎮座してたが、延宝六年(一六七八)ころ現在地に移った。俗に「小女郎稲荷」ともいう。そのわけは『御府内備考』三田代地(君塚町)の条に、「右に剣左に宝珠持、白狐に乗れる女之姿に相見え、里俗小女郎稲荷と唱来、弘法大師の作と申伝候」とあるので知られる。古来より町の失火もまったくなく、氏子中土地代々の家多く、氏神産子の念強く、神社を中心とする氏子を含む一画は、大正十二年関東大震災、昭和大空襲ともに難をまぬかれ氏子中はもちろん、近隣の人びとも「火除の神として崇敬深く日々の参拝は多い。(東京都神社名鑑より)

稲荷神社 君塚町
祭神 宇賀魂命
昔飯倉片町の附近にあつたが、延寶六年頃今の地に移つた。俗に小女郎稲荷ともいふ。其譯は「御府内備考」三田代地町の條に、「右に劔左に寶球白狐に乗女體之姿に相見え、里俗小女郎稲荷と唱来、弘法大師之作と申傳候」とあるので知られる。(「芝區誌」より)

 

小女郎稲荷 大阪府大阪市城東区今福南2丁目12番31号
皇大神宮の境内に小女郎稲荷という小さな社が祀られています。今でこそ知る人も少なくなっていますが、元は旧大和川堤(今の新喜多東2丁目付近)の狐山にあった社で、大和郡山の源九郎稲荷(げんくろういなり)、泉州信太(せんしゅうしのだ) の葛葉稲荷(くずのはいなり)と並ぶ有名な稲荷大明神でした。「摂津名所図会大成」第3巻には「霊験あらたかなりとて参詣人すこぶる多し、社壇もっともきらびやかに造立ありて美なり」と記され、今の極楽橋あたりまで参詣人目当ての茶店が軒を連ねて賑わっていたとのことです。
 社の名称になっている小女郎とは、昔の身分の高い婦人や女官の呼称であった「上臈(じょうろう)」が変化したものと言われています。
 狐山には木々がこんもりと繁った丘があり、狐が住んでいたことからそのように呼ばれていたものと思われます。師走(しわす:12月)の一夜、鴫野や天王田などの村の子どもたちが、家で作ってもらった竹の皮に包んだ油揚げと握り飯を持って「せんぎょせんぎょ」とはやしながら、狐山の周囲を回るお祭りも昭和 7~8年頃(1932~1933年頃)まで残っていたそうです。(大阪府城東区ホームページより)

 

小女郎神社 大阪府吹田市
拝殿には「小女郎咤枳尼天」と書かれている。