発見日 2021年8月3日
発見場所 埼玉県新座市あたご3丁目
明らかに手書きだ。
人のことは言えないが、少なくとも達筆とは言えない。
表札ではなく、玄関灯?に書かれているのは珍しい。
だが、このような旧町名が残っていることは貴重なことである。
歴史
菅沢は近世前期に川越藩主松平信綱によって開かれた野火止用水新田四か村のひとつで、武蔵国橘樹(たちばな)郡菅沢村(現神奈川県横浜市鶴見区菅沢町)から新田開発のためにこの地に集団移住してきた。新しく開いた土地を自分たちの出身地に因んで、菅沢新田と名付けた。これがのちに菅沢村になった。
1889年4月1日
町村制施行に伴い、新座郡大和田町・野火止村・北野村・菅沢村・西堀村が合併し、新・大和田町が成立する。
1896年3月29日
新座郡が廃止され、北足立郡に編入される。
1955年3月1日
大和田町、片山村が合併し、新座町が発足する。
1970年11月1日
市制施行により、新座市となる。
1973年7月1日
住居表示実施により大字菅沢、大字野火止の各一部からあたご一丁目~三丁目が成立。
地名の由来
1354年に小字愛宕裏の地に創建された愛宕神社が由来。愛宕神社は1673年、武蔵野国池上から分霊した八幡社「若宮八幡」に合祀された。勝軍地蔵の信仰が強かった武家時代、城を築城する際に愛宕神社が建立・祀られることが多かったが、この愛宕神社がどの城を鎮護するために建てられたのかは不明である。郷土史家・神山健吉は現在の所沢市に所在した滝の城とする説を唱えている。
(新編武蔵風土記稿より)
(菅澤村)若宮八幡社
年貢地、小名下ノ分にあり、村の鎮守なり、社は南の方に向ひ、本社九尺四面、拝殿は間口三間、奥行二間、前に鳥居を建、兩社の間一間餘、村持なり
(新座市教育委員会新座市文化財保護審議委員会掲示より)
江戸時代に、幕府が編纂した地誌書「新編武蔵風土記稿」には、
菅沢村 若宮八幡社
(中略)村の鎮守なり。社は南の方に向い、本社九尺四面。拝殿は間口奥行二間、前に鳥居を建。両社の間一間余、村持なり。
と記されています。
祭神は、誉田別之命を祀っており、菅沢新田開発のもとに移住した菅沢村の人々の心の拠り所として、親しまれてきました。
寛政三年(一七九一)の紀年銘が刻まれた奉納石(力石)をはじめ、明治六年(一八七三)、断髪令の際、髷を記念に残した奉納額など、文化や世相の推移がうかがわれる文化財が、残っています。
又、境内には、新座で最初の水道(一九四九)の布設を記念した碑文などもまつられています。
(埼玉の神社より)
若宮八幡神社<新座市野火止三-一三-八(菅沢字稲荷窪)>
当地草分けの長谷川家所蔵の正徳六年(一七一六)「草庵再造記」によれば、明暦二年(一六五六)に武蔵国橘樹郡菅沢村(横浜市鶴見区菅沢町)の農民一一名がこの地を開発し、菅沢新田と名付けた。
当社は『明細帳』に「創立寛文元年(一六六一)八月十五日」とある。一方、社記によれば、古老の伝えとして、正平九年(一三五四)に当地の愛宕裏に愛宕神社が創建され、下って延宝元年(一六七三)に武蔵国池上(東京都大田区池上)から移した神社とこの愛宕神社を合祀して、現在の稲荷窪の地に奉斎したという。池上から移した神社とは、日蓮宗の大寺・池上本門寺の鎮守とされた八幡神社の分霊を指すものと思われ、その御子神として祀ったことから「若宮」が冠されたのであろう。また、当社の隣にある日蓮宗番星寺は「妙福寺日数十界曼茶羅」によれば、もと豊島郡徳丸村(東京都板橋区)にあり、寛文年間(一六六一-七三)に中山法華経寺(千葉県市川市)から寺号・山号を受け、開基檀那長谷川忠兵衛が菅沢村に移したものである。番星寺が菅沢村の菩提寺であることや、当社の隣に堂を構えることなどからみて、村の鎮守である当社の別当であったと推測されるが、江戸後期には無住であった。ちなみに日蓮宗では八幡神は護法神とされる。
明治初年に村社に列し、昭和三年には御大典記念として拝殿を新築し、本殿・拝殿を改築した。
滝の城跡
(所沢市ホームページより)
柳瀬の城地区にある城跡で、台地の縁辺部を利用した多郭式平山城です。土塁・堀・櫓台が残り、本郭・二の郭・三の郭の内郭とそれらを囲む外郭で構成されています。内郭は大石氏が築造、北条氏と関係深い「障子堀(畝堀)」を確認したことから、外郭は後世に北条氏によって拡張されたと推測されます。
戦国時代には、多摩西部と北関東の諸城を結ぶ「伝えの城」として重要な役割を担っていたようですが、天正18年(1590年)豊臣 秀吉による小田原征伐とともに落城し、以降は廃城となりました。
現在、城跡の主要部分は、城山神社の境内地となっています。