歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 入間郡富士見町大字鶴馬字赤飯塚

この日の勝敗は2勝4敗だった。

何の?

今回予定していた富士見市の旧町名で見つけることができたものとできなかったものを勝敗に例えたのである。

まず関沢2丁目の3枚の目撃情報があったものを探索するが、全敗だった。
いつものようにローラー作戦を決行したのだが、道路が入り組んでいたのと高低差もあったためだと思う。
ぐるぐる、上り下りを繰り返し、見落としたのか、すべてを回り切れなかったのかわからないが、失敗に終わった。
なんと1枚も見つからなかったのである。
目撃情報があったとしても、このような状態の時もあるので、難しさを感じる。

次の関沢3丁目は成功、鶴瀬西3丁目は失敗、上沢1丁目の探索は成功した。

と、非常にローカルな話になってしまった。

そもそも富士見市とはどこにあるのか?
富士山が見える自治体が付けそうな名称だ。
複数あると思っていたが、調べてみたところ、埼玉県にしかなかった。
地名の由来は、富士見市の名は昭和31年に鶴瀬・水谷・南畑の三村が合併した富士見村からきており、当たり前すぎるが、富士山のすばらしい眺めに由来している。

東武鉄道東上線が通っており、駅がみずほ台駅、 鶴瀬駅、ふじみ野駅の3つがある。

ふじみ野駅
ふじみ野市にあるのかと思ったら、埼玉県富士見市ふじみ野東一丁目にあった。

首都圏の住宅地として人口が急増したことから、東武鉄道がまだ広い野原だったこの地を宅地造成し、いまも発展を続ける町にふさわしい駅名をと、市名と広い野原をあわせて命名され、1999年11月15日ふじみ野駅が開業した。 

隣の自治体は「ふじみ野市」である。
2005年(平成17年)に旧上福岡市と旧大井町が合併してふじみ野市の名称を採用されたが、上福岡市入間郡大井町の合併協議会で候補に挙がった他の新市名は、「栄市」「西さいたま市」「大井福岡市」「大福市」などがあったようだ。
富士見市富士見市民は、駅の所在地住所が富士見市にもかかわらず駅名が「ふじみ野」だと隣市であるふじみ野市と紛らわしいのでふじみ野市の名称を使わないようふじみ野市側に要請する動きをみせたがふじみ野市の名称は変更されず現在に至っている。

ふじみ野市」の自治体名より「ふじみ野駅」の駅名の方が先に命名されたようだ。

これは以下のような理由による。
1990年代前半、(もともとあった)富士見市上福岡市入間郡大井町入間郡三芳町の2市2町は、合併を目指して協議を進めていた。その時、合併後の新たな名前は「ふじみ野市」にすることが決まっていた。
しかし、この協議は2004年に行われた住民投票の結果、否決されてしまったため、「ふじみ野市」構想は白紙になってしまったのだ。

合併に伴って、旧大井町大字亀久保の一部は「ふじみ野市ふじみ野」に。また、2010年には富士見市大字勝瀬の一部が「富士見市ふじみ野東」「富士見市ふじみ野西」になった。


ということだが、地元の方でも自分はどちらの市民なのかと混乱してしまうのではないかと余計な心配をしてしまう。

 

ネットでいろいろ調べていると芋づる式にいろいろなことが気になりだし、中々記事が進まない。
旧町名に関しての情報が見つからない時は、関連するしないに関わらず、調査というかいろいろなことに興味がわいてきて時間がどんどん経ってしまう。

 

 

発見日  2021年12月20日

発見場所 埼玉県富士見市西鶴瀬3丁目

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発見日  2021年12月20日

発見場所 埼玉県富士見市上沢1丁目

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赤飯塚は「あかいいづか」か「せきいいづか」と読むと思ったが、「せきはんづか」だった。

この2枚は東上線を挟んで東側、西側でそれぞれで見つけた。
東上線が通る前からこの地名はあったのだろうから、線路で分断されていても不思議ではないだろう。

 

歴史
1889年(明治22年)4月1日
町村制施行により、勝瀬村と鶴馬村が合併して入間郡鶴瀬村が成立する。旧村は鶴瀬村の大字鶴馬となる。

1956年(昭和31年)9月30日
入間郡鶴瀬村・入間郡南畑村・北足立郡水谷村と合併して入間郡富士見村となり、富士見村の大字となる。

1964年(昭和39年) 4月1日
町制施行。入間郡富士見町の大字となる。

1972年(昭和47年) 4月10日
市制施行。富士見市の大字鶴馬が成立する。

1973年(昭和48年)8月1日
住居表示の実施により、大字鶴馬、大字水子の一部から鶴馬一丁目 - 三丁目、大字鶴馬の一部から鶴瀬東一丁目・二丁目、鶴瀬西二丁目・三丁目が成立。

1973年(昭和48年)11月1日
住居表示の実施により、大字鶴馬の一部から山室一丁目・二丁目、渡戸一丁目 - 三丁目、上沢一丁目 - 三丁目、関沢一丁目 - 三丁目が成立。

1974年(昭和49年)2月1日
住居表示の実施により、大字鶴馬の一部から羽沢一丁目 - 三丁目、諏訪一丁目・二丁目が成立。

 

地名の由来
富士見市ホームページ歴史探訪『ふじみ・発見』No,24・・・市内の地名[2]より)

現在の上沢1丁目の東武東上線線路際周辺を指します。伝説によれば、開発前の雑木林が広がっていたころ、丘状の林にオトウカ(狐)の群れが住んでおり、食料が乏しくなると付近の畑を荒らし、蓄えや家畜に被害が及んで困っていたが、赤飯をつくってオトウカの住む林に供えたところ、荒らされなくなったと伝えられています。このことから、この地名が起こったといわれています。

 

地名の由来に出てきたオトウカが気になってしまったので、調査を続ける。

 

富士見市ふじみ野西4丁目6番地1にオトウカ山公園がある。

 

オトウカ山(おとうかやま)遺跡(富士見市ふじみ野西4丁目)
オトウカとは「お稲荷」の音読み。昔は狐が住んでいたこともあったという。一時、古墳と考えられたこともあったが、発掘調査の成果から古墳とするには難があり、中近世に作られた塚と考えられている。かつて頂上に立てられていたという「藤塚神社」の石碑が勝瀬榛名神社境内に残されており、少なくとも江戸・明治時代には富士塚としてのあつかいを受けていた。

 

埼玉県狭山市のホームページに民話・伝承として以下の話が掲載されていた。

オトウカさまのいたずら

オトウカとは「稲荷さま」のことで、稲荷神社のお使いはキツネだそうです。それでキツネのことを狭山辺りでは、オトウカさまといっています。
 昔のお話です。
 下奥富の前田に住む、おじいさんが畑での仕事も終わり、夕暮れ近くなったので、のんびりと篭かごを背負って、夕焼けを眺めながら帰りかけたときのことです。
 周囲が急に薄暗く、どこからともなく、水があふれ出てきました。
 「ウワァー!こりゃあ、なんだべえ?」
 慌てて尻をまくって、水の中で右往左往しながら、「深い、これは深い!誰か助けてくれー」と大声で叫んでおりました。
 後ろの方から、「おーい!おじいさん、なにをやっとるべえ?」
 ハッと我に返ったおじいさんは、なんとソバ畑の中を歩いておったのでした。
 これは畑に住む、いたずらなオトウカさまに化かされたのです。
 そんなことがあってから、おじいさんは、畑の仕事は朝のうちに済ませるようになったとのことでした。
(広報さやま平成21年3月10日号より)

 

国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベースより

■ 書名・誌名 群馬県史 資料編27 民俗3 
■ 巻・号/通巻・号 27巻 
■ 発行所 群馬県 
■ 発行年月日 S55年3月31日 
■執筆者 井田安雄
■ 論文名 第二編 四 二 群馬の世間話:(一)動物に関する話 

1945~49年頃のこと。おばあさんがご祝儀の帰り、茶臼山のオトウカに山に引き込まれ、魚を取られて一晩中山の中を歩かされた。川を渡っているつもりで「おおふけえ、おおふけえ」と歩いていた。蛇の目傘をさしたきれいな娘に会ったのであいさつをしたが、娘は返事をしなかった。この娘がオトウカで、そこから化かされた。オトウカは返事をしないという。

 

■ 書名・誌名 秩父民俗 
■ 巻・号/通巻・号 通巻10号 
■ 発行所 秩父民俗研究会 
■ 発行年月日 S50年3月15日
■ 執筆者 田中正明
■ 論文名 東秩父旧槻川村の民俗(四) 

二本木のタマフセ神社の主はオトウカという狐であり、この狐は信じないと追いかけてくるという。またある人が夜分に二本木峠を通ったところ、白狐が現れ提灯で欺いたり、物を取ったりしたといわれる。

 

この稲荷を「とうか」と読む地名が全国にいくつかあった。

千葉県成田市稲荷山 とうかやま
千葉県市川市稲荷木 とうかぎ
群馬県前橋市稲荷新田町 とうかしんでんまち
群馬県高崎市稲荷台町 とうかだいまち
福岡県大牟田市稲荷町 とうかまち

 

まだまだ「とうか」に関するものがあった。

とうかさん大祭」は、広島市中区にある圓隆寺の総鎮守である「稲荷大明神」のお祭りであります。御神体である「稲荷大明神」は法華経の守護神で稲荷を「いなり」と唱えず、音読みで「とうか」と呼んだのが語源です。

 

稲荷森稲荷神社(とうかもりいなりじんじゃ)(東京都世田谷区桜丘2-29-3)

稲荷森稲荷神社草創の記録は残っておらず、残念ながら不明です。当神社は古くは「菅刈社」と呼ばれておりました。
江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には、「菅刈社」とあり、「地名を冠するのだから、古い由緒ある社であろう」と記されています。因みに当地は「菅刈庄」といわれていました。

明治時代、土地の古老たちは、
 「奥州へ落ち延びた源義経を追って静御前がやってきて、当神社で一夜を明かした」
 と、言い伝えていました。   

また、当神社は、昭和20年代初めまで鬱蒼とした森でした。雨が降っても神社の境内に入ると傘はいらない、といわれるほどでした。稲荷森(とうかんもり、土地の人々はこのように呼び習わしておりました。)といわれる所以でしょう。現在の神社名は、これによっております。

 

調べるていると、思っていたより以上に「稲荷」と「とうか」に関する情報があり、驚いている。まだまだありそうだが、このくらいにしておこう。

この記事の主題は旧町名だったことを、忘れてしまいそうだ。