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旧町名 琺瑯住所プレート&電力プレート 目黒区三谷町

「三谷町」は「さんやちょう」と読む。

 

発見日  2022年1月18日

発見場所 東京都目黒区鷹番3丁目

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発見日  2021年5月31日

発見場所 東京都目黒区鷹番3丁目

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歴史

昭和7年(1932年)10月1日
東京市は周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入し、いわゆる大東京市が成立した。
東京市目黒区三谷町になる。

昭和18年(1943年)7月1日
東京府東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。
東京都目黒区三谷町になる。

昭和42年(1967年)
三谷町より五本木3、鷹番3、碑文谷6 が成立。

 

目黒区の「三谷町」の地名の由来は見つからなかった。

杉並区にもかつて旧町名「三谷町」があったので、こちらの地名の由来を調べてみた。

武州多摩郡井草村は、正保年間以後(1645年頃)二ヶ村に分けられ、京都に近い西側を方を「上」、遠い東側を「下」とし、それぞれ、上井草村、下井草村と名付けられた。地元民は上井草村を「遅野井村」、下井草村をもと通り「井草村」と呼んでいた。「三家」は上井草村の小名だ。明治22年の町村制施行で三家はなくなり「中通り北」の一部となる。昭和7年杉並区の発足で「三谷町」として復活する。現在の今川1~4丁目の範囲だ。小名「三家」(さんや、後の三谷町)は、三戸の草分け百姓(最初に土着した農家)があったので、「三軒家」と呼ばれ、略されて三家になったそうだ。
いつからか「三家」から「三谷」になったのだろう。

 

三谷北町会

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三谷北町会のホームページより

現在、「鷹番三丁目」の町会名である“三谷北町会”、昭和初期当時の住所は、「東京府荏原郡碑衾町碑文谷」(トウキョウフ/エバラグン/ヒブスマチョウ/ヒモンヤ)という住居表示だったそうです。
しかしその後、昭和7年の“区制施行”により「東京市目黒区三谷町」となりました。
それからまた、11年後の昭和18年に東京は「市」から「都」となったことで、「東京都目黒区三谷町」と、なりました。当時はその南北で町会は分かれて、「三谷南町会」と「三谷北町会」という二つの町会が存在したそうです。
さらに、昭和37年に、住居表示の変更によって、「三谷南町会」は、現在の「碑文谷6丁目」、そして、今現在「目黒区鷹番3丁目全体」と「目黒区五本木3丁目26~33」の住人たちが集う町会が、“三谷北町会”というわけでございます!

 

三谷南町会があると思って少し探してみたが、なかったのは、上記理由だった。

 

愛知県宝飯郡にかつて存在した町「三谷町」の読み方は「みやちょう」
香川県高松市に現存する「三谷町」の読み方は「みたにちょう」

それぞれ読み方が異なっている。