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東京の木製仁丹町名表示板について(1)

東京に設置されていた仁丹の町名表示板について調べていたら、「京都仁丹樂會」さんの下記のページにたどり着いた。

全国津々浦々の考証(その3) ~東京で仁丹発見!!!①~
全国津々浦々の考証(その4) ~東京で仁丹発見!!!②~
全国津々浦々の考証(その5) ~東京で仁丹発見!!!③~
全国津々浦々の考証(その6) ~東京で仁丹発見!!!④~
全国津々浦々の考証(その7) ~東京で仁丹発見!!!⑤~


上記の中の「全国津々浦々の考証(その4) ~東京で仁丹発見!!!②~」に東京都公文書館所蔵の「町名番地札(仁丹広告入)明細調書」が掲載されていた。

今回と次回でその資料の分析を試みてみよう。

といっても木製仁丹町名表示板については、新人、素人同然なので、期待しないでほしい。

 

東京都公文書館所蔵の「町名番地札(仁丹広告入)明細調書」によると、1918年(大正7年)12月から1920年大正9年)10月までの約2年間、合計で92,178枚の町名表示板が製作され、そのうち、なんと!90,440枚もの町名表示板が東京各所に設置されたそうだ。
仁丹本舗のスタッフ延べ人数3,960名が411日の日数をかけて東京市内及び東京市近郊地域中に町名表示板を設置していったそうだ。

 

ここで簡単に東京が15区だった頃から35区を経て23区になるまでの変遷を振り返ってみよう。

1878年明治11年)7月22日
郡区町村編制法により以下の15区が編成される。
麹町区神田区日本橋区京橋区・芝区・麻布区赤坂区・四谷区・牛込区小石川区本郷区下谷区浅草区本所区深川区

1932年(昭和7年)10月1日
隣接5郡82町村を編入、以下の20区を新たに編成。
荏原郡  - 品川区・荏原区・目黒区・大森区蒲田区・世田谷区
豊多摩郡 - 渋谷区・淀橋区・中野区・杉並区
北豊島郡 - 豊島区・滝野川区荒川区王子区板橋区
南足立郡 - 足立区
南葛飾郡 - 向島区城東区葛飾区・江戸川区

1943年(昭和18年)7月1日
東京都制により東京府と統合されて東京市は廃止。35区は東京都の行政区となる。

1947年(昭和22年)3月15日
地方自治法施行直前に35区は再編され、22区となる。

1947年(昭和22年)8月1日
練馬区板橋区より分離し現在の23区となる。

 

「町名番地札(仁丹広告入)明細調書」をExcelに入力してみた。

下記は90,440枚の掲示場所別明細を現行23区別に再集計してみたものである。

f:id:citywalk2020:20220212085025p:plain

これを見ると墨田区が14,302枚と一番多く、続いて台東区12,554枚、港区12,380枚、中央区11,040枚、文京区9,678枚、千代田区7,728枚、新宿区7,084枚+αとなっている。
新宿区の+αは豊多摩郡の一部(淀橋、大久保、戸塚、落合)だが、枚数は不明。

掲示場所を見ると現行区では、旧南葛飾郡江戸川区、旧荏原郡大田区、世田谷区、目黒区、旧南葛飾郡江東区、旧豊多摩郡の杉並区、練馬区には設置されていなかったようだ。

92,178-90,440=1,738枚が在庫になっているはずだが、この行方は何処?

江戸川区大田区江東区、杉並区、世田谷区、練馬区は、15区から離れていたから設置されなかったのだろう。当時は超田舎だったのかもしれない。

目黒区は品川区、渋谷区、港区に隣接していたのに、なぜ設置されなかったのだろう、と思ってしまった。

これらは1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で多くが焼失してしまったと考えられるが、しかし、その後すぐに森下仁丹は町名表示板を再設置していたらしい。
それなのになぜ現存していないのだろう?

その理由と考えられることは「京都仁丹樂會」さんの「全国津々浦々の考証(その7) ~東京で仁丹発見!!!⑤~」に整理されていた。

関東大震災による家屋倒壊と焼失
全半壊、焼失、流失、埋没などの被害を受けた住宅は約37万戸で、そのうち東京府は約20万戸。
Wikpediaでどのように記述されているかいくつか調べてみた。
麹町区:区域に甚大な被害が出る。
神田区:ほぼ全滅。
日本橋区:ほぼ全滅
京橋区:ほぼ全滅
芝区:北方面が焼失。

②戦時中の金属供出
軍需生産を確保するため、国は、1941年(昭和16年)の金属類回収令で、人々から金属製の門や看板などさまざまなものを集めた。特に武器をつくるのに必要な鉄と銅は、さかんに回収され、生活に必要な鍋、釜、やかんなど最小限のものを残して、ほかはすべて回収された。
この時代に生まれた新語が、「家庭鉱脈」というキャッチコピーで、家庭にあった鉄びん・火箸・花器・仏具・窓格子等をはじめ、金銀杯・時計側鎖・煙管(きせる)・置物・指輪・ネクタイピン・バックルなどが根こそぎ回収されたのである。
1943年(昭和18年)4月からは、“まだある金属出せいまだ”の呼びかけで非常回収が強化された。この時は各校の二宮尊徳像をはじめタンスの取手や蚊張の釣手、店の看板なども回収され、ついで11月には、“まだ出し足らぬ家庭鉱”のスローガンの下で、回収が強行された。

東京大空襲による壊滅的な被害
1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
損害家屋は約85万戸以上とされている。

④戦前戦後に相次いで行われた町名地番整理
麹町区
1929年(昭和4年)震災復興後の区画整理に伴い、大部分の地域で町名の統合整理を実施(1938年まで)された。
日本橋区
1928年(昭和3年)震災復興後の区画整理に伴い、大部分の地域で町名の統合整理を実施(1935年まで)。


①と③は誰でも思いつく理由だったが、②と④は思いつかなかった。
旧町名マニアなのだから、④は気が付くべきではなかったのか、と自分に言いたい。

90,440枚の1枚1枚の掲示場所明細の資料はなかったのだろうか?
森下仁丹(当時は森下博薬房)の内部資料としては存在していたと思われるが、関東大震災または東京大空襲で灰になってしまったのだろうか?

 

 To be continued.