歩・探・見・感

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東京の木製仁丹町名表示板について(5)

東京市はかつて、町名番地札を設置していたことがあったそうだ。

京都仁丹樂會さんのホームページに下記の記載があった。

全国津々浦々の考証(その4)
~東京で仁丹発見!!!①~

東京市においても、家主などが便宜上必要な場所には町名番地札などを設置していたようですが、明治40年に東京勧業博覧会を開催したことを一つの契機に、東京を訪れる観覧者への便宜を図るため、市が予算を設け初めて6万2千枚を東京市内に設置したそうです。

全国津々浦々の考証(その4)
~東京で仁丹発見!!!②~

明治40年以来の東京市による町名札設置及び追加・補修による設置枚数の合計は、「町名札ニ関スル書類」によれば71,363枚、総予算3,514円余りでした。

上記に書かれている6万2千枚と71,363枚の差異が気になるが、とにかく、数多くの町名札が設置されたようだ。

これらは東京都内には現存していない。
どこかの博物館や資料館に展示されているという話も聞いたことがない。
関東大震災東京大空襲、町名地番整理で消滅してしまったのだろう。

 

京都仁丹樂會さんは、古い写真や絵ハガキなどに東京市が設置したと思われる町名番地札や仁丹町名表示板が写っていないかどうか探した結果、発見したという記事が、「全国津々浦々の考証(その5)~東京で仁丹発見!!!③~」に掲載されていた。
地道な作業に頭が下がる思いである。

自分では見つけられそうもないので、その果実をいただくわけではないが、参考にさせていただいた。

京都仁丹樂會さんが探されていた国立国会図書館近代デジタルライブラリーのサービスは既に終了しており、調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションのサービスに統合されたようだ。

その経緯を下記に記載した。

国立国会図書館は、著作権の保護期間が終了した(または著作権が存続しているが、著作権者の許諾を得るなどの対応を行った)明治期の蔵書資料をスキャンしてインターネットのウェブサイト上に公開するサービスを「近代デジタルライブラリー」として2002年(平成14年)10月1日から開始した。 

2007年(平成19年)7月3日
大正期の資料も公開されるようになった。

2016年(平成28年)5月31日
国立国会図書館提供の近代デジタルライブラリーは、サービスを終了し、国立国会図書館デジタルコレクションと統合した。

 

京都仁丹樂會さんの「全国津々浦々の考証(その5) ~東京で仁丹発見!!!③~」に掲載されていた国会図書館近代デジタルライブラリーの写真を自分でも国会図書館デジタルコレクションで探してみることにした。
国会図書館デジタルコレクションの資料で公開範囲がインターネット公開(保護期間満了)になっているものがある。
これについては、国会図書館所蔵資料のデジタル画像で著作権保護期間が満了しており、申込みは不要とあるので、京都仁丹樂會さんと同じものになるが、掲載させていただくことにする。
 
まずは東京市が設置したと思われるものを見てみよう。
浅草公園第二区
タイトル :東京名所写真帖 : Views of Tokyo. [2]
出版社  :尚美堂
出版年月日:1910年(明治43年)7月
コマ番号 :10/15
浅草仲見世の雑踏
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煉瓦造りの建物だろうか、左側の壁面に町名番地札と思われるものが設置されている。
奥にかすかに見えるのは、浅草寺だろうか。
左端に「自動電話」の文字が見える。電話ボックスか?
この写真を見ているだけでも、当時の様子が分かり面白いが、メインは仁丹木製町名表示板だ。
この写真の観察はこのくらいにしておこう。
 
と思ったが、図書館で借りた石黒敬章著「ビックリ東京変遷案内」に、明治43年以前の写真が載っていたので、その情報を載せたくなった。
これらの建物は、1885年(明治18年)に旧来の店を取り壊し、7月に着工、12月25日に、銀座煉瓦街の影響を受けて、竣工した仲見世煉瓦街の建物だそうだ。
右手前は明治元年創業の清水屋で、左手前は享保年間創業という梅林堂。
この書籍には明治36年8月以前の写真も載っていたが、当然だが、まだ、町名番地札は設置されていなかった。
関東大震災浅草区は世帯の96%が焼失し、この赤煉瓦の仲見世も焼失したそうだ。(2022年3月2日追記)
 
町名番地札部分を拡大したもの
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長方形だが、2段書きのため、幅広に見える。
旧:浅草区浅草公園第二区
現:台東区浅草1丁目 
 
次に仁丹木製町名表示板が写っているものが2枚あったので、見てみよう。
㋺京橋區尾張町
タイトル :歴史写真. 大正10年1月號
出版社  :歴史写真会
出版年月日:1921年(大正10年)2月
コマ番号 :18/45
虚説流布に脅され預金者東京貯蔵銀行に殺到す

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上の写真を見て、分かるだろうか?
写真中央少し上の壁に町名表示板が設置されている。
その下部にハッキリと、仁丹のロゴが見える。

左側に何が書かれているのかと思い、読んでみた。文字がかすれていて読み取りにくいところは・・・とした。

或いは自己の為めにするところあり又は全然無意味の・・・財界を攪乱し社会に非常なる迷惑を被らしむるものが近来漸く頻出して来た。即ち大正九年十一月六日東京東京貯蔵銀行の取付騒ぎなども全く此種の悪戯に基因するもので同銀行の状態は極めて順調なるにも拘らず虚説に脅かされたるもの同日朝本所支店に襲来したる為め市内の各支店及び本店共預金者殺到して一時は非常の困難を呈した。写真は当日同銀行銀座支店取付の光景である。

この文章で重要なのは、撮影日「大正9年1921年)11月6日」と撮影場所「東京貯蔵銀行銀座支店」だ。

東京貯蔵銀行(Wikipediaより)

1880年明治13年)、日本初の貯蓄銀行として第百国立銀行関係者の手により開業。原六郎が経営に当たった。1927年(昭和2年)、第百銀行が川崎銀行に合併した事で、川崎財閥の傘下に入る。店舗の多くは第百銀行と共有していたが、川崎財閥が専業貯蓄銀行から撤退する方針を打ち出したため、1936年(昭和11年)、川崎第百銀行に合併された。当時の店舗の一部は、現在も三菱UFJ銀行の支店として営業している。 

 

町名表示板部分を拡大したもの

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上に横書きで「京橋區」、次に太字で「尾張町」、その下は「二丁目 十四番地」が2段で書かれているようだ。一番下に仁丹ロゴが見える。

京橋區?尾張町

現在の東京には存在しない区と町だ。
現在の東京都中央区銀座6丁目だ。
煉瓦のサイズから町名表示板のサイズを想像してみた。
煉瓦の数は縦11枚+α、横1枚+α
当時の煉瓦のサイズを調べてみたところ、縦約100mm、横約220mmだったようだ。
これを基に計算すると縦約110㎝、横22㎝になるが、大きすぎるような気がする。
もっと小さい煉瓦なのかもしれない。
 
㋩芝區櫻田本郷町?
タイトル :遊覧東京案内. 1922年版
出版社  :大東社
出版年月日:1922年(大正11年
コマ番号 :95/180

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上の97ページ下の広告を拡大したもの。

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「全国津々浦々の考証(その5) ~東京で仁丹発見!!!③~」に掲載されている写真は古い写真集のものかと思っていたが、広告の写真だった。
店の左側に町名表示板が設置されているのが見える。

このように小さいものをよく探されたものだ、老眼の自分なら、拡大鏡は必須だ。

 

上の98ページ下の広告を拡大したもの。

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ここに「東京市芝區櫻田本郷町電車交差点」と記載されている。
「三友商会」は現存していないようだ。

町名表示板部分を拡大したもの

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上に区名、次に太字で町名、その下に判読が難しいが番地が書かれているようだ。
更に一番下に仁丹ロゴという㋺京橋區尾張町と全く同じレイアウトだ。
町名が5文字になっているのはわかる。
「櫻田本郷町」と書かれているはずだが、そうは読めない。
町名の1、2文字目は「櫻田」に見えないし、3文字目は「代」という字に見えるが、「芝區」にはそのような町名はない。
違う町名なのだろうか?
「芝區櫻田本郷町」は、現在港区西新橋一丁目、新橋一丁目となっている。
 
2枚しか実例がないが、この2枚のレイアウトが一致していることがわかった。
上から小さい文字の区名、太い文字の町名、丁目、番地、ロゴの順になっている。
このレイアウトが重要だ。
何故かは、次回のお楽しみ。
さて、次回が「東京の仁丹木製町名表示板について」シリーズ最終回の予定だ。
東京に残る仁丹木製町名表示板と思われるものについて細かく見ていこう。
 
To be continued.