歩・探・見・感

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旧町名 電力プレート 練馬区南町

この日(2022年2月26日)は大きな失態が二つあった。

まず一つ目
この日は西武池袋線沿いにある旧町名を探索する予定だった。
池袋駅西武池袋線に乗るべきところを東武東上線の急行に乗ってしまった。
それに気が付いたのは、車内アナウンスで「次は成増です。」という声が聞こえた時だった。

えっ?成増。
富士見台はどこで乗り換えればいいんだ?
東武東上線だから、行けるはずがない。
仕方ないので、成増から目的地へ歩いて行くことにした。
この日は練馬区に残る板橋区の旧町名を探索する予定だった。
それは桜台にもあり、成増からはそちらの方が近いようだったので、向かう。
途中寄り道したりしたので、目的地まで1時間半くらいかかってしまった。

二つ目
旧町名「板橋区練馬南町」の探索を開始した。
ローラー作戦を開始したが、なかなか見つからない。
同じ道を何回も往復してしまった。
再訪して再探索するしかないと思っていたら、ようやく見つかった。
1時間以上探索しただろうか。いやもっとか。

しかし、家に帰って調べてみると、驚きだった。
すでに発見済みでブログの記事まで書いていたのだった。
そう、かつて訪問したことをすっかり忘れていたのだ。

やばい、大丈夫か?
無駄にした時間もそうだが、記憶力の低下が非常に気になる。
今後気を付けなければ。
更に予習と復習を徹底し、記憶を固定化する必要がある。
電車を乗り間違えたのは、どう説明する?
釈明を聞いてみたいものだ。

 

①電力プレート

発見日  2022年2月26日

発見場所 東京都練馬区桜台2丁目

ネリミナ-67

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この電力プレートは冬にしか現われないかもしれない。
何故かというとツタらしい植物が絡みついているからである。
春から秋までは葉っぱに覆われていることだろう。

「ネリミナ」?

練馬区練馬南町」、「練馬区南町」どちらの略か?
普通に考えると「練馬区練馬南町」の「練馬南町」になる。

歴史を振り返ってみると下記のようになる。

•1932年(昭和7年)  東京市板橋區練馬南町成立。
•1943年(昭和18年)東京都板橋區練馬南町成立。
•1947年(昭和22年)東京都練馬区練馬南町成立。
•1949年(昭和24年)東京都練馬区南町成立。
•1962年(昭和37年)地番整理により桜台1~3丁目、羽沢1~3丁目、栄町成立
•1963年(昭和38年)住居表示実施により桜台4~6丁目、練馬1~4丁目が成立。

ということは、練馬南町は1947年に成立し、1949年には消滅していることになる。

この電力プレートはその間に製作されたのか?
そうなると戦後まもなく製作されたことになるが、果たしてそうなのか?
継続調査が必要だ。

 

練馬区南町の表札は複数見つけることができた。

発見日は、2020年7月30日、2021年10月11日、2022年2月26日である。

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よく探せばまだ見つかるかもしれない。

 

練馬区ホームページより
桜台は、石神井川の桜と、千川の桜に囲まれた文字通り桜の町であったが、千川の桜は今はない。その千川の桜は、大正4年天皇ご即位を記念して、千川上水沿いの村々が桜や楓(かえで)を7kmにわたって植樹したものである。また、石神井川の桜は昭和9年、皇太子ご誕生を記念して沿岸の有志が植えた。江古田から練馬まで、千川堤の桜は、玉川上水の小金井堤の桜に対して、「新小金井の桜」と呼ばれ、東京の新名所となった。 
 昭和4年下練馬村から練馬町へ、さらに同7年市郡合併で、板橋区練馬南町のうち2・3丁目となった。武蔵野鉄道開通(大正4年)からだいぶ遅れて昭和11年に駅ができ、桜の名所にちなんで「桜台」とつけられた。旧下練馬村(今の北町の自衛隊付近)に桜台という小字があった。それもヒントになったという。 
 22年練馬区が独立した。初の区役所は開進第三小(桜台2-18)講堂に置かれ、今も校庭にその記念碑がある。28年ごろから千川は暗きょ化され、両岸の桜はつぎつぎに伐(き)られていった。 
 37年南町2丁目が地番整理で桜台1~3丁目となった。翌38年に、決まったばかりの住居表示に関する法律で、南町3丁目が桜台4~6丁目となった。地番整理と住居表示が半分ずつの町も珍しい。桜台4~6丁目は同時に実施された練馬と共に住居表示の都内第1号である。 
 広徳寺(桜台6-20)は関東大震災下谷から移ってきた。柳生三代をはじめ、多くの大名墓があることで知られる。 
 石神井川のほとりに「お浜井戸」(同6-32)と呼ばれる所がある。氷川神社氷川台4-47)のご神体が流れ着いた場所だという。3年に一度の春の大祭で、お里帰りのご神幸(しんこう)があり、ここで鶴の舞が行われる。高稲荷神社(桜台6-25)の桜はそのころちょうど満開である。 

ねりま区報 昭和60年4月1日号 掲載

 

練馬区立関新第三小学校

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1932年(昭和7年)に開進第一小学校分校として開校。
1947年(昭和22年)に現校名となる。

 

関新第三小学校の校庭の外に設置されていた。

右に練馬区独立記念碑、中央に埼玉道、左に関新第三小学校

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練馬区独立記念碑・練馬区役所発祥の地

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1946年(昭和21年)8月8日練馬区独立区民大会開催(開進第三小学校)
1947年(昭和22年)7月10日練馬区独立促進大会開催(開進第三小学校)
1947年(昭和22年)8月1日練馬区独立

 

埼玉道

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埼玉道は、清戸道(千川通り)を江古田駅の南、二又で北西へ分かれて、埼玉県戸田市方面に至る道です。二又は下練馬・上板橋・中荒いの三か村の村境でした。
  二又から西部池袋線の踏切を越えると間もなく庚申塔があります。明和2年(1765)羽根沢の人たちが造立したものです。さらに環七通りを過ぎ、開進第三小学校脇を北へ進むと正久保橋に出ます。新道は橋を渡り北西へ真直ぐ伸びていますが、旧道は東へ迂回して光伝寺脇へ出ます。光伝寺には昔の正久保橋の親柱が保存されており、石橋を架けて村人の労苦を救った僧教海の功績を今に伝えています。
  道は旧下練馬村の鎮守氷川神社の北を回り、再び新道に出ます。途中右手に宝永2年(1705)の庚申塔や正徳3年(1713)の地蔵菩薩像が見えます。
  新道は開進第一小学校の南で旧下練馬道と交叉し、さらに直進して丸久保で大山街道と交わります。傍らに道しるべを兼ねた馬頭観音が建っており「高田二里 ぞうし賀や二里」と彫ってあります。これまでの道を逆に辿ると高田・雑司ヶ谷へ着き、別名高田道と言って雑司ヶ谷鬼子母神への信仰の道でもありました。
  埼玉道は、旧上・下練馬村の境(北町と田柄の境)を北へのぼり、川越街道を渡って下赤塚から荒川早瀬の渡しへ出ます。渡しを越すと埼玉県です。埼玉道と呼ばれるゆえんです。
  平成20年(2008)3月 練馬区教育委員会

 

地域の中のお気に入りの風景

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関新第三小学校の回りに児童が描いた絵が貼られていた。

 

いくつか印象に残る写真を撮ってみた。

夕暮れの街

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いつも見る住宅街

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「じゃあまた明日」いつもの声がびびく場所

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地元民ではないので、それぞれどこにあるかわからないが、このような風景がいつまでも残っているといいなと思った。

 

電話番号プレート

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電話一一四番
きっと戦前からある番号だろう。