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掩体壕(えんたいごう) 東京都府中市&東京都三鷹市

歩道に設置してある地図を見ていたら白糸台掩体壕跡という文字が見えた。

町名看板を探索する途中にありそうなので、寄ってみることにした。

 

発見日はすべて2022年3月5日。

 

①白糸台掩体壕

発見場所 東京都府中市白糸台

 

これは何だ?

防空壕か?

 

戦闘機の防空壕だった。

 

正面から見たところ

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横から見たところ

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裏から見たところ

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府中市指定文化財(史跡)旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕

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調布飛行場

調布飛行場は昭和13(1938)年に東京府によって、東京府北多摩群多摩村(府中市)・調布町・三鷹村(三鷹市)にまたがる約50万坪の広大な土地に計画され、農地や寺院などの民有地を買収する形で進められました。昭和16年(1941)年4月に官民共同の飛行場として設置されましたが、同年8月には陸軍専用の飛行場として使用されるようになり、帝都防空の拠点として「飛行第244戦隊」が置かれ、三式戦闘機「飛燕」など多数の戦闘機が配備されました。戦争末期には、鹿児島県の知覧基地への中継点として、特攻隊の訓練も行われました。
 終戦後は進駐軍に接収され、飛行場西側の府中市域には、軍に野菜などを供給するための「調布水耕農場」が建設されました。
その後昭和39(1964)年の東京オリンピック開催に伴い、代々木にあったアメリカ軍居住用施設がこの地に移転し、「関東村」と呼ばれました。関東村は昭和49(1974)年12月にアメリカ軍より全面返還され、跡地には大学・病院・福祉施設などが建設されました。
 平成13(2001)年には「東京都調布飛行場」として正式開港し、現在は伊豆諸島方面への空の玄関口として小型機が運行されています。

掩体壕

アメリカ軍による本土空襲の激化に伴い、残り少ない貴重な戦闘機を空襲から守り、隠しておくための格納施設が、全国の軍用飛行場周辺に作られました。この施設のことを一般的に「掩体壕」と呼んでいます。コンクリート製の屋根にあるもの「有蓋掩体壕」と呼び、区別しています。
 調布飛行場周辺では、昭和19(1944)年6月から9月にかけて、有蓋約30基・無蓋約30基、あわせて約60基の掩体壕が作られました。建設は陸軍と建設業者が中心となり、地元住民や中学生も作業に動員されました。
 有蓋掩体壕は、①饅頭のように土を盛り、よく固まる②その上に紙やムシロ、セメント袋などを敷き、柱や梁の部分は板枠で型をとる③鉄筋を置いてコンクリートを流し込む④コンクリートが固まったら、内部の土を掘り出して上にかぶせ、草木などで偽装する という手順で構築されたと考えられます。労力も物資も乏しい戦時下に、粗悪な資材を用いてきわめて短期間のうちに造られたものである、といえます。また、こうして造られた掩体壕だけでは数が足りず、格納しきれなかった飛行機は、浅間山多磨霊園、下石原八幡神社調布市飛田給方面などの樹木の茂った場所に設けられた「分散秘匿地区」まで運ばれました。
かつて全国に1000基以上作られたといわれる掩体壕ですが、その多くは既に取り壊され、現存しているものも、経年による劣化や開発工事などによって、消滅の危機にあるものが少なくありません。

戦闘機 飛燕

「飛燕」は旧陸軍の「三式戦闘機」の愛称です。川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術を元に国産化した液冷エンジンを搭載した、スリムなデザインが特徴の戦闘機です。エンジン出力は1100馬力、最高時速590㎞/hで、旧陸軍の戦闘機の中では速度性能と航空能力に優れており、昭和18(1943)年に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。アメリカ軍のB29爆撃機による本土空襲が激しくなる中、攻撃が可能な数少ない戦闘機のひとつであり、時には敵機に体当たり攻撃を仕掛けることもありました。

 

旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕

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終戦後、調布飛行場周辺の掩体壕も、多くは取り壊され、現在は三鷹市の都立武蔵野の森公園に2基(大沢1号・2号掩体壕)、府中市内に2基、計4基の有蓋掩体壕が残るのみとなりました。そのうちの1基がこの旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕(以下、「白糸台掩体壕」といいます。)です。
 白糸台掩体壕は、旧所有者が繰り返し補修を行ってきたことから、これまで良好な状態で保存されてきました。府中市では平成18(2006)年の平和都市宣言20周年を機に、白糸台掩体壕の保存・公有地化を決定し、平成19年12月から平成20年3月まで、その構造などを確認するための調査を実施しました。その結果、戦闘機「飛燕」とほぼ同じ規格で造られていたことが判明したほか、排水設備や砂利敷き、誘導路、実際に機体を収納していたことを示すタイヤの痕跡が発見され、平成20(2008)年に市に史跡に指定しました。その後、コンクリートや鉄筋の保存修理工事を経て、平成23(2011)年度に保存整備を実施し、平成24年(2012)年3月より一般公開を開始しました。
 終戦から長い年月が経過し、戦争の記憶が風化していくなか、戦争遺跡を文化財として保存・活用していく気運は経過し、戦争の記憶が風化していくなか、戦争遺跡を文化財として保存・活用していく気運は全国各地で高まっています。戦争の悲惨さや平和の尊さを通義の世代へと語り継いでいくための貴重な歴史遺産として、市民の皆様と共同で白糸台掩体壕を永く保存・活用していくため、今後ともご理解・ご協力をお願いいたします。

平成24年3月 府中市教育委員会

 

白糸台掩体壕調布飛行場付近に造られた掩体壕

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白糸台掩体壕復元図

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三鷹市にも2基あると案内板に書いてあったので、行かねばならぬということで、訪問した。

 

発見場所 東京都三鷹市

三鷹市のものは公園の中に2基設置されていた。

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ユーミンこと松任谷由実(旧名・荒井由実)のヒット曲「中央フリーウェイ」の歌詞に「調布基地を追い越し~♪」というフレーズがある。
中央フリーウェイが収録されたアルバム「14番目の月」が発表された1976年には既に日本に返還されている。

調布基地(現味の素スタジオ)が歌詞に登場するのは、楽曲の12秒目。右に競馬場(東京競馬場)、左のビール工場(サントリー〈天然水のビール工場〉東京・武蔵野)が歌詞に登場するのは1分14秒目だそうだ。その距離は約5km。5kmを1分2秒で到着しようとするなら、約時速290km/hで走らなければならない計算になるそうだ。そして、その速度で走りながら「片手でハンドル、片手で肩を抱く」という体制で「愛してる」と言わねばならない。
どう考えてもできないだろう。

 

掩体壕 大沢1号

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調布飛行場施設配置図

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 調布飛行場は、昭和13年(1938年)に、東京府北多摩郡調布町・三鷹村・多磨村(現在の府中市)にまがたる約50万坪の土地に計画され、畑・家屋・寺・墓地などを半強制的に買収して造られました。工事は、昭和14年(1939年)に東京府逓信省航空局・陸軍省の予算で着工しました。基礎工事には府中刑務所の受刑者や中学生が動員されました。16年の4月には、南北方向に1,000mと東西方向に700mの2本の滑走路と格納庫などが完成しました。初め、予備国際飛行場と航空試験飛行場・陸軍訓練飛行場として使用するはずでしたが、陸軍が全面的に利用することになり、首都防衛のため、戦闘機「飛燕」を中心とした陸軍飛行部隊が配置されました。太平洋戦争の戦況が悪化する昭和20年(1945年)頃には日本本土空襲のため飛来する米軍のB29爆撃機や艦載機の空襲で、飛行場や近くの高射砲陣地が爆撃され死傷者が出ました。またこのころには、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地にもなりました。戦後、飛行場の西側の一部には、「進駐軍」(アメリカ占領軍)が消費する野菜を栽培する「水耕農場」が建設されました。
 現在では伊豆大島・新島・神津島への空の玄関口として小型機が運行されています。調布飛行場の周辺には、戦時中に利用していた門柱・掩体壕・高射砲台座などが市民団体の努力で残されています。

 

掩体壕
 「掩体壕」とは、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、目的は「本土決戦」に備えて、残り少なく貴重な飛行機を温存するためでした。
 太平洋戦争における戦況が悪化する昭和19年(1944年)頃から、コンクリート掩体壕約30基(有蓋)と土嚢で造ったコの字型の掩体壕(無蓋)約30基の約60基が短期間に造られました。建設は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生も大勢動員されました。
 掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で運びました。調布飛行場周辺には、武蔵野の森公園内の2基と府中市に2基の掩体壕が残っています。武蔵野の森公園掩体壕は戦争の記憶を残す証拠とし、「平和への語り部」として保存しています。

 

掩体壕に格納されていた戦闘機「飛燕」f:id:citywalk2020:20220311172036j:plain
 「飛燕」は川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術をもとに、国産化した液冷エンジンを搭載した戦闘機です。
 エンジン出力は1,100馬力で、最高時速590km/hで飛行でき、航空能力に優れ昭和18年(1943年)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。調布飛行場には、首都防衛のため「飛行第244戦隊」に「飛燕」が配備されました。昭和20年(1945年)、B29爆撃機による本土空襲が激しくなるなか果敢に迎撃しましたが、物量に勝る圧倒的なB29爆撃機の攻撃で戦死者が出て、あまり戦果を挙げることができませんでした。最後は、「体当たり」戦術で抵抗しました。戦況がますます悪化するなか、「本土決戦」のため貴重な飛行機を温存するため「掩体壕」に格納されるようになりました。
 また鹿児島県知覧町の「特攻平和記念館」には、当時の飛燕が保存されています。

 

掩体壕 大沢2号

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格納された実物大の飛燕の絵が描かれている。

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飛燕の模型

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「戦時中地盤構造物~各務原台地における掩体壕の特徴について~」の資料によると戦時中には全国で数千機の掩体壕が造られたらしいが、現存しているのは以下の36箇所の96基ということだ。

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この資料には「これらの他に、実態が把握できなかった地域や未踏査区域の残存数が加算される可能性がある。」と記載されている。
東京都府中市は、この資料では1基になっているが、朝日町の私有地内にもう1基にある。
現在は、工場の資材などの置き場として使われているそうだ。

ここについては2021年8月22日の朝日新聞デジタルに「場所を明かせぬ秘密基地は…戦争遺跡 東京に残る掩体壕」という記事が載っている。