今回は、日本橋蛎殻町で発見したものを紹介しよう。
①電力プレート
発見日 2021年9月25日
②住居表示前の旧町名
発見日 2022年3月19日
2つともビルに設置してあったもの。
現行町名だが、住居表示実施によって丁目が変わっている。
4丁目は1976年(昭和51年)の住居表示実施で消滅している。
歴史
「蛎殻町(かきがらちょう)」の地名は江戸期から存在した。当時の蛎殻町の町域は、現在の日本橋蛎殻町の町域に加えて、現在の日本橋人形町の一部を含むものであった。
日本橋区が設置された1878年(明治10年)においては、蛎殻町一丁目から三丁目までの丁目が設けられていた。
1947年(昭和22年)
日本橋区と京橋区の統合による中央区の設立に際し、「日本橋」が冠称とされ、「日本橋蛎殻町」が行政区画の名称となった。
1976年(昭和51年)1月1日
日本橋蛎殻町を含む地域の住居表示が実施され、現在の日本橋蛎殻町の町域となった。これにより、「旧:日本橋蛎殻町一丁目」及び「旧:日本橋蛎殻町二丁目」が「現:日本橋蛎殻町一丁目」に、「旧:日本橋蛎殻町三丁目」及び「旧:日本橋蛎殻町四丁目」が「現:日本橋蛎殻町二丁目」に統合されたが、その際、「旧:日本橋蛎殻町二丁目」の一部(新大橋通りの北側部分)は日本橋人形町一丁目に、「旧:日本橋蛎殻町四丁目」の一部(新大橋通りの北側部分)は日本橋人形町二丁目に編入された。
地名の由来
昔は漁師の小網の干し場であり、牡蠣の殻の堆積した海浜であったらしいのですが、町名の由来は明らかではありません。(港区ホームページより)
江戸の南町奉行・大岡越前守が、耐火のためにカキの殻を屋根に葺くように奨励し、その一帯の家屋の屋根がカキ殻で葺かれていたことからそう呼ばれるようになった。(社団法人日本酪農乳業協会)
「日本橋区史」(1916年刊)には、付近は「元海洲にして埋立(うめたて)のため陸地となりしを以(もっ)て此の称あり」という記述がある。
「東京の地名 地形と語源をたずねて」(河出書房新社)によると、「カキ」という音は地名に使われると、「崖」を指すことがあるという。海岸の急傾斜地を「崖ケ谷(カキガヤ)」と呼び、音がなまって「カキガラ」になったのではという説もある。
カキは漢字で書くと牡蠣、牡蛎、牡蠇、蠣、蛎、蠇といろいろあるようだ。
その中から蛎の字が選ばれたのは何故だろうか?
蛎殻町公園の由来
この蛎殻町辺は、江戸時代の切絵図によると周囲を堀割で囲まれた武家地で、大名の下屋敷が建ち並ぶ静かな落ち着いた町並みであったと思われます。
蛎殻町公園のあるこの場所も、江戸時代、松平三河守(津山藩主)の下屋敷があったところで、その後京都出身の豪商杉村甚兵衛氏の屋敷となり、現在公園内にある大イチョウも、当時、かなりの大木として育っていました。
大正12年(1923)の関東大震災の時には、近所の人達がその広い庭園内に難を逃れて助かった話しも伝わっています。その後、震災復興御計画により、蛎殻町公園として整備され、昭和6年(1931)4月に開園しました。
このたび、有馬小学校と蛎殻町公園を改修整備するにあたりこの地域の歴史を思い起こさせる江戸情緒のある築地塀と門構えを造って町並み景観に特色をもたせ、往時をしのぼうとするものです。
平成元年(1989)4月 中央区土木部公園緑地課