歩・探・見・感

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旧町名 富士見○大字水子字○

富士見市で発見した旧町名「水子」をまとめて紹介しよう。

発見日はすべて2022月4月19日だ。  

今回発見したものは、いつものようにローラー作戦を実施して発見したものだが、いつものことで中々発見できなかった。
谷東1丁目と3丁目は道が入り組んでおり、行ったり来たり、たまに犬にほえられ、ようやく見つけたものである。
2丁目は縦横の道が多かったので、探しやすかったが、発見した表札が少し下の方にあり、色も薄かったので、よく発見したなと自分でも感心である。
2丁目は以前志木市の旧町名を探しに訪れたことがあるが、志木市富士見市が混在しているようなところがあり、住んでいる方も混乱するのではないかと思ったことがある。

①埼玉県富士見市大字水子字北袋

発見場所 埼玉県富士見市谷東1丁目

 

②埼玉県富士見市大字水子字前沼

発見場所 埼玉県富士見市谷東2丁目

 

③埼玉県富士見市大字水子字三丁目

発見場所 埼玉県富士見市谷東3丁目

丁目の記載がない。
これが三丁目なのか?
よく見かける形式なので、見落としそうになった。

 

市民大学 郷土冨士見検定解説講座 水谷東地区について

「2.字名「三丁目」という言葉について」
(1)水谷東の旧住民は古くから「三丁目」と呼んでいた。
 (2)昭和30年代後半から住宅密集地となると、水谷東地区全体を意味するようになった。
 (3)その後, 次第に水子内における旧住民が自分達を、新住民と区別する言葉として使用した。
 (4) 富士見一番の場末・水害常習地帯と関連させて呼ばれるようになった。

 

④埼玉県富士見市大字水子字石井

発見場所 埼玉県富士見市水子

これは現存している小字だが、折角見つけたので。

 

⑤埼玉県入間郡富士見町大字水子

発見場所 埼玉県富士見市谷東3丁目

 

谷東3丁目にあった駐車場の看板

この4桁は何だ?
大字水子の名残だろうか?

 

歴史
1889年(明治22年
水子村と針ケ谷村が合併し、入間郡水谷村となる。水子村は水谷村の大字水子となる。

1944年(昭和19年)2月11日
町村合併促進法が施行され、水谷村、宗岡村、内間木村、志木町が合併、北足立郡志紀町となる。水谷村一時消滅。

1948年(昭和23年)4月1日
水谷村が志紀町から分離、北足立郡水谷村となる。

1956年(昭和31年)9月30日
鶴瀬村、南畑村、水谷村が合併、富士見村となる。富士見村の大字水子となる。

1964年(昭和39年)4月1日
町制施行、富士見町となる。富士見町の大字水子となる。

1967年(昭和42年)
大字水子の一部を北足立郡足立町(後の志木市)へ編入する。なお、同時に足立町大字宗岡の一部を富士見町へ編入する。

1972年(昭和47年)4月10日
市制施行、富士見市となる。富士見市の大字水子が成立

1978年(昭和53年)10月1日
土地区画整理事業により大字水子の一部から東みずほ台(1 - 3丁目)、西みずほ台(1 - 3丁目)、水谷(1 - 2丁目)、水谷東(1 - 3丁目)が分離成立。

 

水子の地名の由来
•古代には武蔵野台地の東端で、すぐそばまで海が迫っていた当地周辺の台地の至る所に湧き水や井戸があり、水処(みずこ)と名づけられ、それが「水子」となった。
•「水子伝説」 - 旅の僧を泊めたところその家の娘が妊娠し、再び現れた僧をなじると僧は祈祷を行い、腹の子が水となって流れて行ったというもの。

 

水子村の由来

戸田市史 民俗編』

野火止の手前に、水子村といわれる村がある。

昔、弘法大師が修行に来た。ある家にたくはつに行ったところ、そこの家の娘が顔を見たとたんに、「こういう坊さんとなら、一緒になってみたい」と思った。そのように思ったときから、その娘のおなかがふくれてしまった。

それから、三年たって、弘法大師がまた修行に出かけてみると、娘の親が「娘に手を出した」と、たいへん怒っていた。「私はそういうことはしたことがない」ということで、論議になった。いつまでもらちがあかないので、試験してみることになった。そこで、水を入れたたらいの中へその子を入れて、弘法大師が金剛づえで四、五回グルグル回してみると、その子の形がなくなってしまった。その子は弘法大師の子ではないことがわかった。

それから、その村は水子村と呼ばれるようになったという。(新曽)

 

谷東の地名の由来

旧水谷村の東部に位置することから。

 

谷東地域の概要(水谷東安心まちづくり協議会ホームページより)  

谷東地域(水谷東1丁目町会、水谷東2丁目町会、水谷東3丁目町会、榎町町会)は、富士見市の南東部に位置し、新河岸川と柳瀬川の合流部を中心として形成されています。
昭和30年代前半頃までは、水田、畑、竹やぶなどのある低地が広がっており、大雨のときには周囲から雨水が集まってくるなど、遊水池のような機能を果たしていました。
昭和36年頃から、日本経済の高度成長とともに、志木市方面から開発の波が押し寄せるようになり、2丁目、3丁目、1丁目の順に宅地開発が進められていきました。
このような地域特性のため、水谷東地域は大きな水害(昭和41年、昭和57年、平成3年)に見舞われましたが、その一方で、このような困難が地域住民の連携と結束が育まれ、住民主体のまちづくり活動を推進するための原動力となりました。