歩・探・見・感

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東京中央放送局聴取章&愛国婦人会会員章

立派な門に貼られていたが、老眼で裸眼の肉眼ではよくわからなかったので、写真に撮ってみた。
調べてみると古いものだとわかったので、取り上げることにした。

 

発見日  2022年5月3日

発見場所 東京都立川市富士見5丁目

 

左側 東京中央放送局聴取章

上側に「聴取無線電話」、下側に「東京中央放送局」とある。
材質はアルミだそうだ。

戦前の物はすべて右書きと思ったら、左書きだった。

 

放送が始まった当初から、ラジオ放送を受信するには、放送局との受信契約が必要であった。聴取章は、契約を結ぶと送られてくる小型のバッジで、玄関先や門柱など受信機の設置場所の、外から見やすい場所に表示する義務があった。
放送法が成立する1950年まではラジオの聴取に逓信省の施設許可が必要であった。受信契約が結ばれると、放送局からは「聴取章」が、逓信局からははがきに印刷された「聴取無線電話施設許可書」が送られてくる仕組みであった。
1926年8月20日、政府の方針により東京、大阪、名古屋の3放送局は1つの社団法人に再編されることになり、日本放送協会が成立した。各放送局は東京を本部とする関東、関西、東海の支部に再編され、それぞれ中央放送局とされた。大阪放送局の本放送開始は1926年12月1日であるので、合同されてからの本放送ということになる。3つの放送局が独立して活動していたのは1年半余りの短い期間であった。東京放送局は、東京中央放送局となり、1927(昭和2)年度には新たな支部が追加され、関東、関西、東海、中国、九州、東北、北海道の7つの支部で全国を網羅する組織となった。
(日本ラジオ博物館ホームページより)

 

これは「東京中央放送局」とあるので、1926年以降のものと考えられる。

 

「東京中央放送局」の前身の「東京放送局」時代のものもあるらしいが、まだ見つけられていない。

 

右側 愛国婦人会会員章

戦前の軍事後援を目的とする婦人団体。1901年(明治34)2月24日奥村五百子(いおこ)により設立された(発会式は3月2日)。動機は、奥村が前年義和団(ぎわだん)事件(北清(ほくしん)事変)の戦地を視察したとき、兵士に後顧の憂いをもたせてはいけないと感得したことにある。当初、戦死者の遺族と重傷痍(じゅうしょうい)軍人の救護を目的とし、婦人が半衿(はんえり)一掛を節約して会費を出し合い、それを弔慰金として寄贈することを主事業とした。皇族や名流華族夫人を総裁、会長にいただき、東京に本部を、道府県支部を置き、1902年機関誌『愛国婦人』を発行、日露戦時の1905年には46万余の会員を数えた。第一次世界大戦後には、児童健康相談、婦人職業紹介などの社会事業にも着手。満州事変勃発(ぼっぱつ)(1931)後、軍部のつくった大日本国防婦人会に対抗して婦人報国運動をおこし、地久節(ちきゅうせつ)(皇后誕生日)奉仕や愛国貯金運動を行った。1942年(昭和17)2月2日大日本婦人会に統合された(統合時の会員は約400万人)。

 

今までもこのようなものを撮ったことがあるような気がするが、整理ができていないので、埋もれてしまっているかもしれない。

今後は探索時に、気を付けて見てみよう。