歩・探・見・感

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旧町名 文京区指ヶ谷町

文京区指ヶ谷町のものは、以前発見していたが、更に新しいものを発見することができたので、紹介しよう。

 

「指ヶ谷町」は何と読むだろうか?

「さがやちょう」

はずれ、だ。

正解は「さがやちょう」だ。

 

①文京区指ヶ谷町

発見日  2020年2月15日

発見場所 東京都文京区5丁目

「四三」?

木製のものは読みにくい。

大体何で表札を木で作成するのだろうか?

将来劣化して、読めなくなってしまうのではないかと思わないのだろうか?

立派な門にも木製のものをよく見かける。

木の材質により、高いものもあるかもしれないが、一般的に値段が安いという印象である。

読めていれば、もう少し旧町名が発見できるだろうにと、読めない木製の表札を見てよく思う。
それでも解読される方がいて、旧町名の新発見につながっている。

撮った写真を加工して読めるようになればいいのだが、そういう方法があるのか分からない。

ということで、自分は他の方が解読した旧町名を探索するしかない。

もっともこれは自分でも解読できるが。

 

②文京区指ヶ谷町九二番地

発見日  2022年5月9日

発見場所 東京都文京区5丁目

 

③文京区指ヶ谷町九二番地

発見日  2022年6月20日

発見場所 東京都文京区2丁目

以前、この路地は入ったことがあると思うのだが、その時は気が付かなかった。

よく見かける電話番号のプレートと似ているので、わかりにくい。

薄くてわかりにくいが、指ヶ谷の文字がよめる。

肉眼では読めたのだが、写真に撮るとだめだなあ。

 

旧町名案内

古くは、小石川村に属した。元和9年(1623)伝通院領となった。寛永(1624~44)のころには、木立の茂った谷地であった。
ある時、3代将軍家光が鷹狩に来て、「あの谷も遠からず人家ができるであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名ができたといわれる。
寛永11年(1634年)町屋ができ、指ヶ谷1丁目、2丁目、指ヶ谷南片町と称した。
明治2年、白山前町の内、千川屋敷、円乗寺、蓮華寺、浄雲寺、正福院などの門前を併せて指ヶ谷町とした。

 

指ヶ谷町小学校

1915年(大正4年)4月1日、東京市指ケ谷尋常小学校として開校。

1941年(昭和16年)4月1日、東京府東京市指ケ谷国民学校に改称。

1943年(昭和18年)7月1日、東京都指ケ谷国民学校に改称。

1947年(昭和22年)4月1日に現在の校名となる。

 

「さすがや」が正当な読みだが「さしがや」ともいわれ、区立小学校と区立保育園に「さすがやしょうがっこう」、「さしがやほいくえん」が併存している。
これは保育園設立の際に、地域名の指ヶ谷町(さすがやちょう)を聞き間違えたためと言われている。

 

指ヶ谷町小入口の信号

白いシールが貼られているのが気になる。
シールが貼られる前は何だったのだろうか?
まさか「Sasigaya Elem. Sch.」?

 

指ヶ谷町会と白山指ヶ谷町会は同じ町会だと思ったが、違うようだ。

2020年、指ヶ谷町会は100周年を迎えた。コロナ禍で記念式典は中止になり、2021年の4月に指ヶ谷町会100周年記念誌「おかげさまで百周年」を発行した。

 

指ヶ谷町会の提灯

 

白山神社にあった神輿倉

 

歴史

1869(明治2)年5月
小石川指ヶ谷南片町、小石川円乗寺門前、小石川蓮華寺門前、小石川浄雲寺門前、小石川正福院門前、千川屋敷、小石川白山前町の一部、白山御殿町の一部を合併。

1872(明治5)年8月
仲町広小路、白山御殿大通、小十人町を合併。

1878(明治11)年11月2日
東京府小石川区に所属。

1889(明治22)年5月1日
東京府東京市小石川区に所属。

1943(昭和18)年7月1日
東京都小石川区に所属。

1947(昭和22)年3月15日
東京都文京区に所属。

1964(昭和39)年8月1日
住居表示の実施により、白山一・二丁目になる。

1967(昭和42)年1月1日
残余は白山四・五丁目に編入となり消滅。


地名の由来

徳川三代将軍家光が鷹狩りに来た折りに「あの谷も遠からず人家が出来るであろう」と指し示されたことに由来している。