最近は邪道かもしれない旧町名探索に目覚めた。
神社仏閣は旧町名の探索がメインの目的で訪問するのではないので、たまたま発見したということにしておこう。
未だに自分が未見の旧町名が新たに発見されている事実に驚きは隠せないが、いずれは東京23区内の王道の旧町名の痕跡は探し尽くされることだろう。
そこで、旧町名には変わりないので、他の方に先駆けて?このようなものにも積極的に目を向けていきたい。
どこかで書いたような気がするが、忘れた。
還暦を過ぎたおじさんのあるあるということで気にしないでもらいたい。
もう既に、他の方が紹介しているものもあるかもしれないが、できるだけ重複しないように紹介できればと思っている。
もし重複していたら、ご容赦いただきたい。
これも年のせいとしておこう。
あまりこの階段を上ることはない。
最近は別なルートから登り、上から下ってくることが多い。
本当に曲垣平九郎は馬で駆け上がったのか?と思っていたら、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライして、成功している方が何人かいたらしい。
明治15年・石川清馬(セイマ。宮城県出身)
大正14年・岩木利夫(参謀本部馬丁)廃馬になる愛馬のために最後の花道をつくった
昭和57年・渡辺隆馬(ワタナベ リュウマ。スタントマン)「史実に挑戦」というテレビの特番にて。
本当だったんだ!
神社では、男坂を馬で上下するのに成功された方の絵や写真を見ることができるらしい。
この狛犬の台座の裏側にあった。
発見日 2022年5月10日
発見場所 東京都港区愛宕
この狛犬を献納した方は芝區(現港区)ではなく品川區の方だった。
①愛知県西加茂郡猿投(さなげ)村大字越戸(こしど)字浪岩七十三番第二番地
猿投は「さなげ」、越戸は「こしど」と読む。
歴史
1878年(明治11年)
加茂郡が東加茂郡と西加茂郡に分離される。
1889年(明治22年)10月1日
舞木村、乙部村、亀首村、猿投村、加納村、本徳村が合併し、広沢村となる。
越戸村、花本村、荒井村、四郷村、御船村が合併し、上郷村となる。
西枝下村、西広瀬村、松峯村、押沢村、藤沢村、富田村、上川口村、下川口村、御作村が合併し、富貴下村となる。
1906年(明治39年)7月1日
広沢村、上郷村、および富貴下村の一部が合併し、猿投村となる。
1953年(昭和28年)4月1日
猿投村が町制施行して猿投町となる
1967年(昭和42年)4月1日
猿投町が豊田市へ編入される。
地名の由来
諸説あるので、書き出してみた。
サ・ナゲは狭薙(さ・なぎ)の転にて、大雨のたびに表層が崩れる山を表現した地名と推察される。
猿投山(さなげやま)の山名の由来
山麓の猿投神社の社蔵文書には、「景行天皇が伊勢国へ赴いた際に、かわいがっていた猿が不吉なことを行ったので、海へ投げ捨てた。その猿が今の猿投山に籠もって住んだとされることから、"猿投"と呼ばれるようになった」とされている。
全国的に見て「猿」のつく地名には2つのパターンがあるようだ。1つは「猿」は単なる当て字で「サル」は「峡ル」「去ル」に由来するという説。地形が狭くなっているところからきたと考えられる。
もう1つは文字通り「猿」にちなむという説。
『名古屋「駅名」の謎』の著者 谷川彰英氏は後者だと考えているようだ。
上の猿投山(さなげやま)の山名の由来にある通りで、その昔景行天皇が伊勢に行幸した際、可愛がっていた猿が不祥事を起こしたので、伊勢の海に投げ込んだところ、鷲取山に逃げ込み、そのことから「猿投山」という名前がついた。日本武尊の東征の際、三河国から武士が従って功績を挙げたが、あとで聞いてみると、それは猿投山に逃げ込んだ猿であったという、伝承が残されているということを根拠にしているようだ。
②東京市品川区北品川三丁目二百三一番地
1889年(明治22年)5月1日
町村制施行により現在の品川区の領域では以下の町村が誕生。
東京府荏原郡:品川町、大井村、大崎村、平塚村
1908年(明治41年)8月1日
大井村が町制施行して大井町になる。
大崎村が町制施行して大崎町になる。
1926年(大正15年)4月1日
平塚村が町制施行して平塚町になる。
1927年(昭和2年)7月1日
平塚町が改称して荏原町になる。
1932年(昭和7年)10月1日
上記4町が東京市に編入され、品川町、大井町、大崎町の3町域をもって(旧)品川区が、荏原町の町域をもって荏原区がそれぞれ誕生。
1947年(昭和22年)3月15日
東京特別区制実施により、旧・品川区地域と旧・荏原区地域により特別区としての品川区が発足
1967年(昭和45年)2月1日
住居表示により北品川1・2・4・6(全)、北品川3・5、南品川1・4、東大崎1より北品川1~6丁目が成立。
③新橋烏森町
「新橋烏森町」という旧町名はなかったので、新橋にある「烏森町」という意味なのであろう。
『新撰東京名所図会』には「又右の石垣には新橋伊勢源と刻し、之に次ぎて、新橋烏森町の芸妓亀鶴屋米吉以下十一人の名を刻したり。」と記載されている。
右の石垣と記載されているが、鳥居側から見ると左側のものである。
歴史
1872年(明治5年)
「烏森」という町名が起立される。
1932年(昭和7年)
「烏森町」は「日影町1丁目」、「芝口2丁目」に「官有無番地」を合わせて「新橋2丁目」となる。
烏森という地名を残すものは烏森神社とJR新橋駅の出入り口案内だけとなった。