大和町の旧町名の痕跡を発見した後、すぐ近くに公園があるのに気が付いた。
大きな石が置かれているのが見えたので、立ち寄ってみた。
発見日 2022年5月21日
発見場所 東京都中野区大和町3丁目
石垣が組まれている。
何の関心がない人が見たらただの石。
以前は自分もそちら側の人間だった。
これらはただものではない石だと思うが、正体は分からない。
記号みたいのが彫られている石。
丸の中に横線2本と丸の中に点
何だろう?
頭がくぼんで見えるので、河童の石?
門柱?
にしては小さいか。
道に出てみると、大和鹿鳴公園とある。
場所はここだ。
「鹿鳴」というと、あの「鹿鳴館」のことか?
調べてみると元は屋敷だったそうだ。
その屋敷の庭には「鹿鳴館」の礎石が使われていたそうだ。
それらの石を使ってこの公園は造成されているらしい。
ネットで調べて分かったのはここまで。
公園の説明板は見つからない。
小さな公園とはいえ、このような名称の公園名を付けるなら、説明板があってもいいと思うのだが。
もしかしたら、見落としているかもしれないが・・・。
そこで「鹿鳴館」について調べてみた。
明治16(1883)年、政府や貴族の社交場として建設された「鹿鳴館(ろくめいかん)」。
イギリス人のジョサイア・コンドルが設計した「鹿鳴館」は、11,255平方メートルという広大な敷地を誇るレンガ造り二階建ての洋風建築で、館内には、宴会場だけでなくホテルも併設されていたそうだ。
開館後は政府や貴族が、外国の使臣や紳商を招待。連日のように、園遊会や舞踏会、夜会、バザーなどの催しが開かれた。
「鹿鳴館」は明治27(1894)年に華族会館として払い下げられることになる。その後、昭和2 (1927)年には現在の大和生命保険に売却され、昭和15 (1940)年に建物は解体された。
現在は、建物があった帝国ホテルと日比谷U-1ビルの境目に「鹿鳴館跡」の碑が埋め込まれている。
取り壊しの際に取外された階段と壁紙は、東京大学工学部建築学科に保存されている。また取り壊し時に売却されたシャンデリアは江戸川区の燈明寺(平井聖天)に残っている。
この石たちもなんらかの理由で、屋敷に運ばれてきたのだろう。
もしかしたら、この屋敷の持ち主が、壊されるのを知り、廃棄される運命だった石たちを引き取ったのかもしれない。
この屋敷の持ち主は元華族かもしれない、といろいろ想像してみるのも楽しい。
両国にある「江戸東京博物館」に『鹿鳴館』の模型があるらしい。
透明な床板を通して、『鹿鳴館』の建物と庭園の全貌を上から見渡すことができるそうだ。
「江戸東京博物館」に入館したことはあったが、その時は『鹿鳴館』には関心がなかったので、あったのかどうかも覚えていない。
現在、江戸東京博物館は大規模改修工事のため2022年4月1日~2025年度中(予定)まで全館休館中だが、『鹿鳴館』の模型はパノラマビューで見ることができる。
美鳩小学校にも鹿鳴館の礎石があるらしい。
大和小学校にあった「大和の碑」の石材は、鹿鳴館の跡地に本社があった大和生命保険が、大和小25周年を迎える際に鹿鳴館正門の礎石25個を寄贈したものです。平成29年4月、大和小と若宮小の統合、美鳩小学校開校により「大和の碑」は撤去するとの発表がありました。そこで大和町歴史編纂委員が中心となり「大和町文化財を守る会」を立ち上げ、関係各所との折衝を重ねた結果、礎石を下記の形で保存することが決まりました。
■大和小記念碑「大和校われらが母校」を、美鳩小新校舎建設敷地内に建立
■大和町文化財を守る会会員3人のお宅に、庭石として6個保存
(中野区大和区民活動センターホームページより)
この公園に設置されている石は、関心がなければただの石。
関心を持てば、このように世界が広がる。
という教えを感じた公園であった。