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旧町名&琺瑯町名看板 昭島市大神町

立川市、八王子市、福生市、日野市に囲まれており、周囲の市が比較的知名度が高いことも相まって、非常に影が薄い。都外の人間に「昭島市」と言って通じることはまずなく、「立川市の隣」「横田基地がある福生市の隣」と説明して理解してもらえればまだいい方で、「八王子市の隣(実際はそこまで結びつきは強くない)」「昭和記念公園の左半分(外部民は全域立川市だと思い込んでいることがある)」といった説明でようやく通じることがある。(ニコニコ大百科記事より)

 

昭島市神町

立川市の旧町名を探索時、昭島市に入り込んでしまった時に発見したもの。

発見日  2022年5月30日

発見場所 東京都昭島市武蔵野2丁目



昭島市神町148

発見日  2020年10月26日

発見場所 東京都昭島市神町4丁目

広告主の多摩寿司を調べてみたが、昭島市ではヒットしなかった。
電話番号が「4-5401」と市外局番が略されていると思うが短い。
この時代は市外局番は5桁だったのかもしれない。
電話番号の語呂合わせ「ゴヨハイチバン」は「御用は一番(ごようはいちばん)」のことだろう。

 

歴史

1889年(明治22年)4月1日
神奈川県北多摩郡郷地村、福島村、築地村、中神村、宮沢村、大神村、上川原村、田中村、拝島村が成立。9ヶ村で中神村外八ヶ村組合を結成。

1893年明治26年)4月1日
三多摩東京府に移管。

1902年(明治35年)4月1日
拝島村が中神村外八ヶ村組合から分離独立。8ヶ村で中神村外七ヶ村組合に。

1928年(昭和3年)1月1日
中神村外七ヶ村組合の8ヶ村が合併し昭和村に。

1941年(昭和16年)1月1日
昭和村が町制施行。昭和町に。

1954年(昭和29年)5月1日
昭和町と拝島村が合併、昭島市発足(「昭」和+拝「島」の合成地名)。

1983年(昭和58年)8月1日
神町田中町上川原町より大神町1丁目~4丁目が成立。

1987年(昭和62年)8月1日
神町、宮沢町、大神町上川原町より武蔵野2、3丁目が成立。

地名の由来

昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語
昭島の歴史
第Ⅲ編 中世の昭島
第1章 鎌倉・室町(かまくら・むろまち)時代の昭島
五 大神村と、観音寺(かんのんじ)・駒形神社

地名の由来については、二つの説が述べられています。
一説は、「古くから神明宮が祭られていたので、大神宮村といったという」です。

一説は「この地域の人々は、相模国の大上から移って来た。それらの人々がこの地に、大上山観音寺を建立した」というものです。

 

青梅線の北側に「つつじヶ丘」や「武蔵野」がなかった頃の地図を見ると、昭島市立川市との境界線が、昭島市側の町の分布ときれいに対応していることに気づく。
今の武蔵野2丁目のうち、西半分は砂川側に突き出しているが、東半分は手前に引っ込んでいる。
これは、南側(昭島地域)の農民と,北側(砂川村=現立川市)の農民が、それぞれ両側から開墾を進めていって、ぶつかったところを境界にしたためと考えられる。
武蔵野2丁目の西半分は旧大神町、東半分は宮沢町だった。つまり、それぞれ当時の大神村・宮沢村の農民が開墾を進めていって、そのスピードが違かったからだと思われる。

 

表札は北側の立川市の境付近の武蔵野2丁目、琺瑯町名看板は南側の多摩川付近の大神町4丁目でそれぞれ発見したので、旧大神町はかなり広かったのだと思われる。

 

立川市の旧町名探索は、芳しい結果を得ることができなかった。
大体適当に探索していても、旧町名の痕跡はいくつか発見できることが多いのだが、 立川市では町名地番更正前の「砂川町」くらいしか発見できなかった。
再チャレンジするかは検討中。

 

立川市でのことだが、道端に生えていた「桑の実(別名マルベリー)」をいくつか失敬してお土産にさせてもらった。
もしかしたら、食べたのは小学生以来かもしれない。
懐かしい味がした。