歩・探・見・感

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旧町名 台東區浅草向柳原町

今回の木製の表札は字が浮き出ていて、自分でもはっきりと読み取ることができる。

といっても、人通りがあり、現地で実物をゆっくりと読み取れるまで確認しているわけにはいかないので、その時は見てもはっきりと読み取れず、帰ってから写真を見てようやく確認できたのだが。

 

発見日  2022年6月11日

発見場所 東京都台東区浅草橋四丁目

 

旧町名由来案内

この地域は江戸時代から大名・旗本・御家人の住む武家地屋敷であった。明治政府は新しい時代のまちづくりをするため武家屋敷地を一般住民の住む町へと変えていった。向柳原町はこのような時代背景をもつ明治五年(1872)に誕生した。
町名は、神田川の南側(現千代田区)にあった柳原がもとになっている。神田の柳原に対することから向柳原町となった。そして柳原の由来は、現在の万世橋から柳橋にかけての神田川南岸沿に柳が数多く植えられていたことにちなんでいる。
肥前平戸藩松浦邸内には「蓬莱園」と呼ぶ廻遊式の庭園があった。寛永九年(1632)に松浦隆信が幕府からこの地を別邸として与えられたとき、庭園づくりの名人といわれた小堀遠州に造らせたものである。惜しくも関東大震災のため大部分が失われてしまったが今も都立忍岡高校敷地内に銀杏の巨木と小さな池が当時の名残をとどめている。

 

浅草橋五丁目柳北町会

 

歴史

1878(明治11)年11月2日
東京府浅草区に所属。

1889(明治22)年5月1日
東京府東京市浅草区に所属。

1934(昭和9)年
帝都復興計画の一環により、一丁目北側一部は鳥越一丁目に、二丁目の東北隅は浅草橋三丁目に編入となり、町域を狭めた。

1943(昭和18)年7月1日
東京都浅草区に所属。同年、一部を神田区編入し、東京都神田区向柳原町一丁目となる(神田区向柳原町には二丁目以降はなし)。

1947(昭和22)年3月15日
東京都台東区に所属。その際、「浅草」の冠称を付す。

1964(昭和39)年1月1日
住居表示の実施により、一丁目は浅草橋四・五丁目に、二丁目は浅草橋二・三、五丁目に編入となり消滅。現行の浅草橋二~五丁目、鳥越一丁目。

 

地名の由来

町名は神田川を隔てて南側に「柳原」という地区があり、俗に「向柳原」、「向柳原町」と呼ばれていたことに因む。江戸切絵図にも「此辺一圓向柳原ト云」とある。

 

 

蓬莱園跡碑

現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北小学校のある一帯に、江戸時代、肥前国(現、佐賀県長崎県の一部)平戸藩主松浦氏の屋敷があった。寛永9年(1632)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、別邸を造営し、庭園を築造した。庭園はのち蓬莱園と命名された。
明治40年(1907)刊行の『東京案内』には「文化文政の頃の築造に係り、東都名園中現存するものの一也」と記されている。園内の模様は大正3年(1914)刊行の『浅草区誌』に詳しい。同書によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、13基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約2千6百坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていた。
この名園も、関東大震災のため荒廃し、消滅した。現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけである。
旧柳北小学校は(旧住所浅草橋五丁目一番三十五号)は、平成十三年育英小学校と統合し、現在は台東育英小学校(浅草橋二丁目二十六番八号となっている。)