歩・探・見・感

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旧町名 豊島區髙田南町

豊島区は今年、区制90周年を迎える。

旧町名マニアだったら、そんなの常識だって?

このポスターを見るまで知らなかった。

それで旧町名マニアと言えるのか?

・・・。

 

というわけで、歴史を調べてみよう。

1871年11月
長崎村が浦和県(現埼玉県)より東京府編入

1889年5月1日
町村制施行により、北豊島郡巣鴨町巣鴨村、高田村、長崎村が発足。

1918年7月20日
巣鴨村が町制施行し、西巣鴨町となる。

1920年4月3日
高田村が町制施行。

1926年10月1日
長崎村が町制施行。

1932年10月1日
巣鴨町、西巣鴨町、高田町、長崎町が東京市編入され、4町の区域をもって豊島区が発足。

1943年7月1日
東京都制施行により東京都豊島区となる。

 

のぞき坂(胸突き坂)

豊島区高田2丁目17番と18番の間にある急坂。目白通りから南に下る坂道で、宿坂の西にあり、東京一急な坂ともいわれている。東京都内で自動車通行が可能な道路としては、傾斜・延長距離ともに最急の一つに数えられる坂だ。

写真の撮り方が下手くそで急坂に見えない。

坂の上から撮ろうとしたのだが、通行人がなかなか途切れので、待ちきれず、下におりてしまった。

しかし、この写真の腕では上から撮っても、同じだったかもしれない。

次回坂を撮るためにテクニックを調べておこう。

 

発見日  2022年6月13日

発見場所 東京都豊島区高田二丁目

門のところにある表札は現町名のものだった。

これは玄関脇に設置されていた。

こういうケースは気が付きにくい。

普通は、すぐ見える表札を見て、これは現町名だと一瞬で判断し、通り過ぎてしまうだろう。

しかし、今回は玄関脇にもあることに気が付いたのだ。

いろいろと注意深く見ることが大切だと思い知らされた。

 

門から離れているところにあるため、少しボケてしまった。

 

歴史

明治2年
新政府によって高田村とされる。

明治11年
「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属。

明治22年
「市制町村制」により高田村・雑司ヶ谷村・高田若葉町・高田千登世町・雑司ヶ谷旭出町・巣鴨飛地・小石川村飛地・高田老松町飛地・高田豊川町飛地が合併して高田村を構成しその大字高田となる。

大正9年
町制に移行して高田町大字高田。

昭和7年
東京市に併合されて豊島区高田本町1~2丁目・高田南町1~3丁目となった。

昭和41年
新住居表示により高田本町の一部を雑司ヶ谷・目白に譲り、高田本町の大部分と高田南町1~3丁目をあわせた町域を現行の「高田」となる。

 

地名の由来

中野区の上高田は「高畑つまり高いところにある陸田」に由来するというが、豊島区の高田は宿坂や富士見坂に見られるように「急斜面地」によると考えられる。
地名用語に「タカ」または「タケ」は崖や急な傾斜面をいうとある。
ここは神田川に向かって急斜面だ。そこに段々畑で耕地を開発したことによると考えられる。

 

江戸時代の高田村

天保五(1834)年に刊行された『 江戸名所図会 』では、 高田村 付近の様子が、 長谷川雪旦 による三枚の挿絵付きで紹介されている。
「高田」と題された挿絵の中央に 南蔵院 が配され、境内に薬師(堂)と鶯宿梅(おうしゅくばい)が描かれている。
鶯宿梅は、江戸幕府三代将軍徳川 家光 が自ら植えたといわれ、このときすでに枯れていたとされるが、『 新編武蔵風土記稿 (しんぺんむさしふどきこう)』では、鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記している。
南蔵院の前には右橋(みぎはし)、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれている。道を隔てたところには氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは、現在もほとんど変わっておらず、江戸時代の名残をとどめている。

平成二十一(2009)年三月

豊島区教育委員会

 

豊島区立高南小学校

大正11年    開校式挙行。校名は東京府北豊島郡高田町立第三高田尋常小学校
  12年    校名が、高田第三尋常小学校に変更。
昭和 7年    校名が、東京市高田第三尋常小学校に変更。
  18年    校名が、東京都高田第三国民学校に変更。
  22年    校名が豊島区立高南小学校に変わる。
令和 3年 創立100周年

 

高田南小学校でもよかったと思うのだが、同名の小学校があったのだろうか?

 

区民広場高南第一

 

南蔵院にある大きな木に咲いていた花