歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 千代田区三年町

霞が関コモンゲートの大階段

階段の幅は9m。

左側にエレベータがあるので、あまり歩く人はいない。

ここの39段の階段の蹴上部分の御影石に429年分の年号が彫られている。
1580年からこの霞が関コモンゲートができた2007年の翌年の2008年までの年号が彫られているそうだ。
最下段の一番左側が1580、そこから1段ごとに横に11個ずつ数字が並んでおり、最上段の一番右が2008となっている。

 

霞ヶ関の歴史を知ってもらうために、所々に江戸時代の古地図や浮世絵、近・現代の霞ヶ関周辺の写真が描かれている。

1916

1968(昭和43年)霞が関ビルオープン

2008

 

久しぶりに再訪した。

 

発見日  2020年12月28日(再訪日2022年6月16日)

発見場所 東京都千代田区霞が関三丁目

ビルのプレートに旧町名が残っている。

この存在は霞が関の奇跡だ!

 

歴史

1878(明治11)年11月2日
東京府麹町区に所属。

1889(明治22)年5月1日
東京府東京市麹町区に所属。

1938(昭和13)年8月1日
帝都復興計画の一環により、東部が霞ヶ関三丁目に編入となる。

1943(昭和18)年7月1日
東京都麹町区に所属。

1947(昭和22)年3月15日
東京都千代田区に所属。

1967(昭和42)年4月1日
残部も住居表示の実施により、霞が関三丁目、永田町一丁目の各一部に編入となり消滅。

 

地名の由来

町内にある三年坂に因む。坂名は「ここで転ぶと三年以内に死ぬ」という俗信から。

 

このビルに見たくないものがあった。

何と!「解体工事のお知らせ」が貼られていたのだった。

 

また、旧町名の痕跡が失われてしまう。

 

伊藤ビル全容

日本の中枢である霞が関と総理官邸や国会議事堂に隣接する場所、首都高速都心環状線霞が関トンネルの上を通る六本木通りに面して、小柄でひっそりとしたビルが目に入る。
六本木通と斜めに分岐する路地との間にある三角地帯に建っている。

竣工1964年(昭和39年)12月
地上5階建

【かつての主なテナント等】
301 株式会社第一音楽出版
    有限会社キャッツ・タウンレコード
302 株式会社第一プロダクション
201 佐藤法律事務所
202 株式会社トウチュウ
101 株式会社プライスリーダー・霞ヶ関オフィス
102 株式会社エムズウエス
南1F 株式会社高山耕山
南1F 国政調査
南1F 株式会社高山耕山・応接室
南1F 全国社会福祉政治連盟

これらのテナントはもうどこかに移転してしまっているのだろう。

 

ビルの旧町名プレート、ビルのオーナーが保管してくれるとうれしいのだけれど。

 

 

三年坂

霞が関三丁目の大蔵省と文部省との間の坂です。今は会計検査院の前を直線に高速4号線に突き当たりますが、昭和39年頃まではこの坂の上部が二段三段と曲折した坂が続き、その所を栄螺尻(さざえ じり)と呼んでいました。
『新撰東京名所図会』には、「三年坂は潮見坂の南に隣れり、裏霞が関と三年町の間の坂なり。坂を上れば栄螺尻とす。昔此坂にて転ぶときは、三年のうちに死すという俗説より此の名起れり。又、淡路坂ともいい一に此処を陶山が関といふ。……裏霞が関と三年町の間、道路の盤曲する所を栄螺尻と呼ぶ。」とあります。
また、『新編江戸志』(近藤義休撰)には「曲り曲りたる坂の名なり、亦此辺鶯多し、因て鶯谷というよし見えたり。」とあります。
千代田区観光協会ホームページより)

 

この坂を三年坂といいます。「東京名所図会」には「三年坂は潮見坂の南に隣れり、裏霞ヶ関と三年町の間の坂なり、坂をのぼれば是より栄螺尻とす。又淡路坂ともいい、一に此処を陶山が関という」とあり、さらに「栄螺尻、裏霞ヶ関と三年坂の間、道路の盤曲する所をさざえしりと呼び、虎の御門より永田町に出る裏道なり、曲り曲りたる坂の名なり、亦此辺鶯多し、因って鶯谷というよしみえたり」とかかれています。
千代田区設置の標識)

 

栄螺尻(さざえしり)、淡路坂、裏霞が関鶯谷等新たな固有名詞が出てきた。
調べるか?
本件と関係ないので、調べな~い。

 

2022年6月27日

まだ解体は始まっていなかった。

誰かいたら、ビルのプレートのことを聞いてみようと思ったのだが、空振りだった。

 

2022年7月16日

まだ解体は始まっていなかった。

解体工事のお知らせを見ると、7月25日からになっていた。

 

近くにある新霞が関ビル公開空地の公園に寄ってみた。

立派な灯籠が建っていた。

この石灯籠は、永田町一丁目の岩手県東京事務所の敷地内にあったもので、岩手県のご好意により全国社会福祉協議会にご寄贈いただきました。

終戦時この敷地は岩手県出身の総理大臣米内光政の邸宅となっていたました。

また、江戸時代は伊勢志摩を起源とする水軍の九鬼長門守の中屋敷跡でした。
向かいあってもうひとつ上屋敷がありましたが、その前を通る坂は「茱萸(ぐみ)坂」と呼ばれていました。

この石灯籠は形状から江戸中期のもので春日灯籠。九鬼家の中屋敷に伝わっていることから九鬼家由来のものであると考えられます。

平成24年3月17日、永田町一丁目四番地から六本木通りを隔てて新霞が関ビル公開空地の公園に移設いたしました。堂々たる風格でいかにも大名屋敷にふさわしい石灯籠です。

 

世界の石

霞ヶ関ビルが建っている場所にはかつて久保講堂と全国社会福祉協議会があった。
久保講堂脇あたりに古くてくすんだモニュメントがあったそうで、それは昭和33年、日本で開催された第九回国際社会事業会議の際、各国代表が手みやげとして持ってきてくれた石を展示した物だったらしい。
 その“お土産の石モニュメント” が新霞ヶ関ビル建設のため撤去された後、綺麗に作り直されてここに展示されたという経緯があるようだ。

 

第九回国際社会事業会議
 昭和三三年一一月三〇日から一二月六日わたつて、第九回国際社会事業会議が東京において開催された。この国際会議は社会福祉その他関連する諸問題の国際的な討議の場を提供し、これに関する情報と経験を交換するとともに、社会福祉の分野における国際間の協力を促進、助長することを目的として、一九二八年以来開催されているのであるが、今回の会議は、海外から四一カ国六八九人の参加のもとに、「社会福祉と社会資源-社会的ニードのための資源の動員-」という主題をめぐって種種検討を行なった。(昭和34年版『厚生白書』より)

 

2022年9月11日

足場が組まれ、正面下部にパネルが貼られていた。

 

裏側も足場が組まれ、下部にパネルが貼られていた。

 

裏口は、まだパネルが貼られておらず、プレートも無事であった。

そろそろ救出しないと手遅れになりそうだ。

メールしても無視されているが、どうする?

 

2022年9月13日

とうとう全体が覆われてしまった。

裏口も塞がれていた。

 

隙間からのぞくと、プレートは無事なのは確認できた。

その後3回目のメールを上野毛建設に送信した。

何故返信してくれないのだ?

届いていないのか?

このままだと、廃棄されてしまうのは確実だ。

どうする?

 

2022年9月27日

この日は何の作業もされていなかった。

誰かいたら、声をかけてみるつもりだったのだが、空振りだった。

上野毛建設を調べてみた。

ホームページはある様だ。上野毛建設株式会社 | 土木工事 宅地造成工事 建物総合解体 | 東京都世田谷区 (kami-ken.com)

ホームページから問い合わせしたのだが、全く返信はもらえない。

読まれていないかもしれない。

でも、森下仁丹や文京区に問い合わせた時も返事をもらえなかった。

そんなものなのだろうか?

クレームではないのだから、企業や自治体の常識としては何かしらの返事をするのが、普通だと思うのだけど。

でも、今の世はきっと違うのかもしれない。