歩・探・見・感

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旧町名 台東区御徒町

23区で面積が最も大きいのは大田区の60.42㎢、最も小さいのは台東区の10.08㎢。
大田区台東区の6倍の広さである。
端から端まで直線でおよそ4kmの距離。

この日は、日暮里駅で降り、荒川区を探索後、台東区を縦断した。

 

今回は旧町名「御徒町」を紹介しよう。

町名としては使われていないが、 “御徒町”の名が付く駅は「御徒町駅」、「上野御徒町駅」、「仲御徒町駅」に「新御徒町駅」の計4駅5路線あり、旧町名が大活躍している。

 

両方とも木製の表札で、風化してしまって読み取りにくいが、なんとか「御徒町」と読める。

 

台東区御徒町一丁目二十四番地

発見日  2022年6月16日

発見場所 東京都台東区台東四丁目

 

台東区御徒町○○

発見日  2021年4月17日  

発見場所 東京都台東区台東二丁目

 

③もしかしたら「御徒町」のものかも?

「町」という字が見えるような気がする。

たぶん、おそらく、きっと「御徒町」のものではないだろうか。

これをずっと①の表札だと思っていた。

①の場所はかなり前からわかっていたはずなのに、それを撮らず、読めるように撮れないかと、こればかり何回も撮っていて、読めないなあと悩んでいた。

なぜこれを①だと思い続けていたのだろうか?
自分でもよくわからない。

 

旧町名由来案内

この付近一帯は、徳川三代将軍家光(1623~1651)のころ徒士(かち)組の屋敷地であった。徒士組とは、徒歩組、歩行衆ともいわれ、徒歩で主君にお供したことにもとづく呼称である。江戸幕府の職制では若年寄に属し、その職務は、将軍外出の際の沿道警備・江戸城中玄関廊下の警戒であった。
この地は、江戸末期に至るまで徒士組の屋敷が多かったことから、御徒町、徒町と呼ばれるようになった。明治五年(1872)、徒歩組屋敷および周辺の武家屋敷などを併せ、御徒町は誕生した。
文化文政(1804~1830)のころ、この付近では朝顔の作りが盛んであった。今でこそ朝顔といえば入谷であるが、この地こそ朝顔作り発祥の地である。

歴史

1964年(昭和39年)1月1日
御徒町一丁目より台東一丁目・台東二丁目・台東三丁目となる。
御徒町二丁目より台東三丁目・台東四丁目となる。

1964年(昭和39年)10月1日
御徒町三丁目より東上野一丁目・東上野二丁目となり、御徒町消滅。

 

御徒(おかち)と呼ばれた徒士(かち)は、馬上の資格がある侍(馬廻組以上)以下だが、士分格を持たない足軽以上という身分。
近代的な軍制では下士官にあたり、江戸時代、御徒や鉄砲組同心などの下級幕臣の屋敷地は、「組屋敷」といって、組単位で与えられていた。
下谷に配されたのは、地理的に軍事上の要所だったからだ。
100坪ほどの敷地に、20坪ほどの家(現代的にいえば2DKくらい)を有し、七十俵五人扶持のサラリーを得ていた。
七十俵は、現代的に換算すれば(米相場によって変動するが)、500万〜600万くらいらしい。(これに五人扶持分、二十五俵と二斗五升がプラスされる)。
御徒の公務は、将軍の外出に随行してその警備に当たることだ。

 

今で考えると台東区で100坪の土地、20坪の家、年収500万〜600万とかなり恵まれていたのだなあと思う。

 

御徒町公園

 

町名としての「御徒町」を復活させようとする動きも出てきているらしい。

平成28年9月30日、台東区議会に設置されている区民文教委員会に「旧町名活用懇談会」の報告書が提出されており、その中で様々な提案がなされたようだ。

現在の台東区総合計画の中にも、基本目標3「活力にあふれ多彩な魅力が輝くまちの実現」の文化分野重点施策である「文化資源の保存・継承・活用」として、明記されている。

果たして、御徒町の地名は復活するのだろうか?