博物館、資料館旧町名探索シリーズ第何弾だ?
文京ふるさと歴史館で「本郷區眞砂町」を発見!
発見日 2022年6月18日
発見場所 文京ふるさと歴史館(東京都文京区本郷4-9-29)
竣工当時から解体まで飾られていた清和寮の門柱の表札
「眞砂町」は以前「旧町名 眞砂町」で紹介しているが、紹介した表札は消滅してしまった。
しかし、これは「文京ふるさと歴史館」に展示されているので、ずっと歴史を伝えてくれるだろう。
戦前の写真
上の写真は、昭和13年撮影の市営真砂住宅。中央上の鉄筋アパートが清和寮、その手前から右にかけてが真砂町住宅。手前の白い家は吉池の従業員寮。
真砂町住宅と清和寮
真砂町住宅の模型
ギャンブレル型の屋根にフランス瓦という洋風住宅。
かなりモダンな住宅で、中流階級を惹きつけるデザインだ。
このような住宅が道路を挟んで東側に3戸、西側に5戸が建てられたそうだ。
真砂町住宅は46棟75戸が建てられたのことだが、現存しているのは旧東京市営真砂町住宅第2期分(1923年)のわずか2戸のみである。
①本郷四丁目22
こちらは赤い屋根。
②本郷四丁目21
オシャレな玄関。
白のストライプでオレンジの妻面がかわいい~。
それぞれ手入れが行き届いていて、大正時代の約100年前に建てられたものとは思えない。
丘の上にも第3期(大正14年)の素敵な住宅があったようだが、ストリートビューで見ると2017年にはつまらない新しい家に建て替えられていた。
腰折れ屋根はマンサード屋根とかギャンブレル屋根とか言われるが、厳密には、
左 マンサード屋根 → 勾配が寄棟屋根のように四方向に伸びている腰折れ屋根。
右 ギャンブレル屋根 → 勾配が外側に向かって二段階になっている腰折れ屋根。
らしい。
屋根的にはマンサードが寄棟構造でギャンブレルが切妻構造と思えばいいようだ。
②に設置されているプレート
47の数字は何を意味しているのだろう?
46棟75戸が建てられたとあるので、棟数ではなさそうだ。
ということは戸数の番号なのだろうか?
真砂町住宅について調べていたら次の資料が見つかった。
田中傑著「関東大震災後の罹災者収容バラックと三井諸会社による活動の位置づけ」に以下の記載があった。
震災の当時、同住宅地では 1921年9月および1923年2月に着工し、1923年1月および 1923年7月に竣工した木造瓦葺2階建て28棟48戸が存在したほか、1923年6月に着工、震災の混乱がある程度おさまった1925年3月に竣工することとなる木造瓦葺2階建て18棟27戸が工事中であったが、竣工していた住宅48戸の住宅は「大過なきを得た」という。
東京市営真砂町住宅地の一郭に本バラックが建てられたと推定される.
『大震災ト三井家ノ救済事業』によれば 3 棟,129.30 坪,42戸 ,『震災罹災者救護用仮住宅並託児所寄附調』によれば 6 棟,129.30 坪,42 戸(内訳は住棟 3 棟,便所 3棟)で,1923 年 10 月 11 日に竣工し,臨時震災救護事務局へと寄附されたが,『東京震災録中輯』には記述がなかった.『本郷区史』によれば,「……三井男爵家寄贈建設右京ヶ原バラツクは十月十六日収容開始(で)収容人員(は)百六十九名」であったという.
震災後は真砂町住宅付近にバラックが建てられていて、共存していた時期があったようだ。
玉川一郎著「大正・本郷の子」に真砂町住宅や清和寮の話が出てくる。
「右京山のこと
本郷三丁目から春日町にむかい、真砂町から少し行くと坂になるが、それから先は、草の生い茂る原っぱであった。
本郷から小石川にかけての、子供たちの天地ともいうべき右京山であった。戦時中評判になった富田常雄の『姿三四郎』で有名になった「右京ヶ原」は、この土地のことなのだ。
後には東京市営住宅が出来たり、同じく市ヶ谷の四階建鉄筋アパート清和寮が建ったりして、僅かな空き地が、昔日の右京山のおもかげを残していたが、今は整地され、植樹もされて、小遊園地になっている。」