歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

飛鳥の小径と飛鳥山公園の文化財他 

記事を書くのをグズグズしていたら、シーズンが終わってしまった。

しかしこのまま眠らせてしまうのはもったいなので、お披露目することにしよう。

併せて飛鳥山公園で見つけた文化財等も紹介しよう。

 

訪問日  2022年6月24日

訪問場所 東京都北区王子1-1-3

 

飛鳥の小径 

約1,300株が「飛鳥の小径(あすかのこみち)」に沿って約350メートルに渡り、植えられている。

 

ここからはしばらくアジサイに付き合ってもらおう。

飛鳥山下跨線人道橋(あすかやましたこせんじんどうきょう)とアジサイ

飛鳥山下跨線人道橋は1925年(大正14年)竣工で、日本国内に現存する数少ない古レールを構造材に利用した跨線橋

 

まだまだ続く。

太陽光線がアジサイに注いでいる

 

竹林の間から見える太陽の光

 

トカゲのしっぽにある緑色のハート飾りがかわいい

 

渋沢翁のテーマパーク 王子飛鳥山
飛鳥山公園案内図

飛鳥山は江戸時代に徳川吉宗享保の改革の一環として花見の行楽地として整備し、明治6年太政官布達によって、上野・芝・浅草・深川とともに日本最初の公園に指定され、令和の現在も「憩いと出会い」の場として親しまれている。

 

旧渋沢家飛鳥山

国指定重要文化財(建造物)

旧渋沢家飛鳥山
(晩香廬:ばんこうろ・青淵文庫:せいえんぶんこ) 
北区西ヶ原2-16-1

飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。

渋沢栄一明治34年から昭和6年に亡くなるまでの30年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は現在の本郷通りから「飛鳥山の3つの博物館」に向かうスロープ付近に出入り口となる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和20年の空襲で焼失してしまい、大正6年竣工の「晩香廬」と大正14年竣工の「青淵文庫」のみ、「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一喜寿の祝いとして、「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督しています。当時の世界的なデザイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成17年。「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)として二棟が重要文化財(建造物)に指定されました。

平成19年3月 東京都北区教育委員会

 

渋沢栄一

この銅像渋沢栄一頭取の還暦を祝して、第一銀行行員一同より長沼守敬氏に依嘱して鋳造したもので、1902年(明治35)年4月3日、第一銀行本店新築落成に際し、中庭に設置し除幕式が行われた。

 

青淵文庫(せいえんぶんこ)

所在地    北区西ヶ原2-16-1
設計者    中村田辺建築事務所・田辺淳
建築年    1925(大正14)年
指定年月日  2005(平成17)年12月27日

渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。
渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。
上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。
内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。

財団法人 渋沢栄一記念財団

 

晩香廬(ばんこうろ)

所在地    北区西ヶ原2-16-1
設計者    田辺淳吉(清水組技師長)
建築年    1917(大正6)年
指定年月日  2005(平成17)年12月27日

近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建(株))の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。
外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。
応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。
なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。

財団法人 渋沢栄一記念財団

 

露台下より出土した「まぐさ」と露台基礎

露台下より出土した『まぐさ』
 露台(ろだい)下部の掘削中に土の中より発見されたものである。これは扉や窓の開口部上部に架ける「まぐさ」と呼ばれる部材で、形状、寸法から「控室」(台所北側)出入口の「まぐさ」であることが判明した。
 表面に張られたタイル裏面の刻印「泰平」の文字の跡や鋼製建具を固定した金具、壁の漆喰塗が残っていることから、建物は、タイルを張り、建具を取りつけ、壁の仕上げを終えた完成間近の状態で1923(大正12)年9月に、関東大震災によって壁が崩れるなどの大きな被害をうけたことがわかる。
 また、タイルは京都の『泰平居(たいへいきょ)』という工房でつくられたこと、青淵文庫の主要構造は煉瓦造であったが、『まぐさ』部分には鉄筋コンクリートが用いられたこと、などがわかる。

露台基礎
 青淵文庫創建時の露台(那智黒石が敷きつめられたテラス部分)基礎の一部である。コンクリートを打った上に煉瓦を積み、基礎としている。
 煉瓦の上には、露台の縁石として御影石を敷き並べていた。
 枡と土管は雨水を排水するためのもので、排水口には鋳物のふたを設けていた。露台には緩やかな勾配がついており、雨水は露台の端の要所に設けられた秋水枡に流れ、各枡をつなぐ土管を流れ、下水本管に排水されていたようである。
 2002(平成14)年の修理で、露台の基礎は、補強のため鉄筋コンクリート造に改められた。

 

山形亭跡

丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。
「六角堂」とも呼ばれていました。
この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。
西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。

 

無心庵跡

茶室「無心庵(むしんあん)」

設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

邀月台(ようげきだい)

無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。
当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台こうのだいの台地や、さらにその北には、筑波山つくばさんの勇姿を望むこともできたといいます。

 

茶席待合跡

茶席「無心庵」への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。

 

茶席門跡

茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられていたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。

 

兜稲荷社跡

日本橋兜町の第一銀行内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。

 

渋沢×北区 飛鳥山おみやげ館の壁に貼られていたイラスト

実物とは似ても似つかいない思うが、何でこんなキャラが誕生したのか?

大河ドラマ「青天を衝け」では下記の方がキャストだったので、草なぎ剛以外は当然イケメンに部類に入るだろう。

渋沢栄一(篤太夫)/吉沢亮
渋沢喜作(成一郎)/高良健吾
徳川慶喜草なぎ剛
尾高平九郎/岡田健史

尾高平九郎は高身長(174cm)で実際にイケメンだったようである。

 

飛鳥山公園にはかつて活躍した乗物も展示されている。

D51853

昭和18年8月31日に国鉄鷹取工機部で生産されたD51の15両(D51 836〜842、853〜860)のうちの1両。吹田機関区に配属後、戦後間もない昭和21年1月1日に梅小路機関区、同年5月8日に姫路機関区、昭和23年9月11日に長門機関区、そして昭和42年6月24日に酒田機関区に配属となり、昭和47年6月14日に廃車となった。同年、9月に当時の東京北鉄道管理局長と東京都北区長との間で無償貸与契約が締結され、飛鳥山公園に静態保存されている。
総走行距離は、なんと1,942,471.3kmで、月へ2.5往復するくらい活躍していた。

 

都電6080

都電6080について
この都電 6080は昭和53年4月まで飛鳥山公園 脇の荒川線 を走っていた車両です。
荒川線の前身は「王子電氣軌道株式会社」といい通称「王電」の名で親しまれた私営の郊外電車でした。明治44年8月大塚⇔飛鳥山上間2.45kmの開業がはじまりで、その後王子を中心に早稲田、三の輪、赤羽を結ぶ路線が完成し昭和17年当時の東京市に譲渡されたのです。この車両は6000型と呼ばれており戦後はじめての新造車で昭和24年に製造されたものです。青山、大久保、駒込の各車庫を経て昭和46年3月荒川車庫の配属となり現役を退くまで都民の足として活躍していました。
北区では都電のワンマン化を機会に交通局から譲り受け子供たちの施設として設置したものです。
閉鎖時間 PM4:30~翌AM9:00
連絡先 北区道路公園課
電話 03-3908-9275

令和2年11月に再塗装を行い、リニューアルされた。