歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

霊岸島水位観測所&一等水準点「交無号(こうむごう)」

小雨が降るが、そのおかげで暑くなく、ある意味探索日和ともいえる日だった。

 

新川二丁目の一番先まであるものを探しに行った。

歩道を歩いていると、モニュメントらしきものが見えた。(たぶん前も訪問したことがある。)

ビルの階段を上ると、まず見つけたものがこれだった。

 

江戸港発祥跡

慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和11年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった。

 

右側面

離島への汽船発着所として 東京湾汽船は明治22年、この地に設立された。町には6軒の旅館があり、島の人々で賑わった。
旧町名越前堀は 越前松平家の周囲に堀があったことに由来する
地名 将監は幕府奉行職御船手(海兵団)向井将監の屋敷跡に由来する
霊岸島検潮舎は、海抜の原点で、この大川端のテラス内にある
越前堀将監21号 住民建立

碑文 左側面
東京京橋ライオンズクラブ
結成35周年記念
平成12年1月吉日 建立

 

隅田川テラスの階段を下り少し歩くと、地図があった。

海に何か建っているが、あれがそうなのか。

下の地図でいうと現在地の右の方だが、観光地でないためか、何も書かれていない。

①向井将監ゆかりの地

後日(2022年7月25日)行ってみたが、碑らしきものはなかった。

 

先ほど見た錨の碑の説明が書かれていた。

②江戸湊の碑
江戸時代 江戸に集まる物資は主として舟運によるものでした。関西方面をはじめ各地方から江戸に物資が集中し 日本橋 京橋地区の河岸地に陸揚げされました。幕末に横浜が国際貿易港として開港したのに対して 東京の開港は遅れ ようやく1941年に開港の運びとなりました。

 

中央大橋の下から亀島川水門の手前までの部分の隅田川テラスだが、昨年(2021年)2月から防潮堤の耐震補強工事が行われており通行が出来ない状態だったらしい。
6月30日の午後に工事が終わり通行が可能になったということだ。

そんなこと知らなかった。
ごく最近のことだ。
工事が終わっていてよかった。

 

霊岸島水位観測所

発見日  2022年7月16日

発見場所 東京都中央区新川二丁目

 

階段を上ると、左側に説明版、右側に下り坂がある。

先の方にはタワーマンション群が広がる。

 

右側の道を下っていく。

初めて来た人・見た人は「あれは何のオブジェ?」となるかもしれん。
自分もそうだった。

 

階段があり、上れるようになっていた。

 

柵がありこの先は入れないようになっていた。

 

手の伸ばして柵越しに撮ってみた。

見る場所によって形が変わる。

 

左側の説明版

日本水準原点霊岸島水位観測所
 国土交通省関東地方整備局
 荒川下流河川事務所

 

ここにも旧町名「霊岸島」が残っていた。

 

1.水準原点とは

 現在日本の水準原点は、測量法施行令第2条により東京都千代田区永田町1丁目1番地内にある日本水準点で、その高さは東京湾平均海面上24.4140mと定められています。
東京湾平均海面をT.P.0mとして算定しています。)
この水準原点の高さに基づいて、例えば、山の高さや土地の高さが「標高〇〇m」というように求められているのです。

T.P. はTokyo Pailの略

 

2.日本近代測量と霊岸島水位観測所について

 日本の近代測量は明治初期に始まりました。当時の測量方法は所要河川の河口部に水位を測るための「量水標」を設け測量を行うときには近くの「量水標」の平均海面データを用いていました。「量水標」の主なものは、明治5年に利根川河口の「銚子量水標」が日本初で、翌明治6年にここ霊岸島に、明治7年に江戸川と淀川の河口にと、全国の主要河川でそれぞれ設置されました。
 霊岸島水位観測所の零位は、A.P.0m(エーピーゼロ、A.P.はArakawa Peilの略、Peliはオランダ語で「基準」あるいは「標準」の意)と呼ばれるようになりました。
 その後、測量技術などの進歩に伴い、平均海面のデータの全国統一が考えられ、そのときに選ばれたのがここ霊岸島水位観測所だったのです。



右側の説明版

 

3.東京湾平均海面と日本水準原点

 平均海面を算出するために霊岸島水位観測所で明治6年6月から明治12年12月の間、4ヶ月間の欠測を除き6年3ヶ月の毎日の満潮位と干潮位を測定しその平均値を求め、さらにその平均値を算出したのです。このときの値が霊岸島水位標の読み値で1.1344mでした。これを東京湾平均海面すなわちT.P.0mとし全国の高さの基準として定めたのです。そしてその後の明治24年5月に東京都千代田区永田町に「日本水準原点」が設置され、このとき霊岸島水位観測所から原点までの水準測量を行い、日本水準原点の高さ24.5000mを基準点としたのです。しかしこの値は、大正12年に起きた関東大震災の影響により昭和3年に24.4140mに改定され現在に至っています。

何故か「大正12年」のところにシールが貼られている。拡大して見ると「大正15年」と書いてあるように見える。間違っていたから消したのかな。

 

4.現在の霊岸島水位観測所

日本の水準原点を生んだ令官島水位観測所も、その後の東京湾の埋め立てや隅田川の河川水の影響があり、水準原点の検証をするための観測所としては、理想的な位置とは言えなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
 現在の霊岸島水位観測所は荒川水系の工事実施基本計画や改修計画の策定及び改訂のための基礎データの観測を続けていますが、隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設しました。
 元の観測所の位置には、その歴史的経緯を永く後世に伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。また新しい観測所の3角形のフレームは、土木や建築の設計図などに高さを表す記号として用いられる▽をイメージし、その下端部はA.P.0mを指し、その1辺の長さは観測所位置のある東経139°47’にちなみ13.947mとしています。
 観測室については、斜方十二面体という形で立方体それぞれの面に後輩45°の四角錐を付加したような形をしていて、川に沿って視点を移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見えるものです。

 

2022年7月25日再訪

この日は天気が良かった。

前回訪問した時、量水標を撮るのを忘れていたので、撮るためにわざわざ再訪したのだった。

上部と下部で色が異なっている。

色の違いは何か意味があるのかと思って、よく見てみてみたところ古い量水標の上に3mまで新しい青い量水標が重ねられていた。

上に2mとあるので、現在の水位は約1m50cmでいいのかな。

 

見る場所によって形が変わるので、左側から撮ってみた。

 

隅田川テラスから見るタワーマンション

 

霊岸島水位観測所」に満足して「一等水準点」を訪問するのを忘れるところだった。手前の道を曲がってしまっていたら、これに出会うことはなかった。

 

②一等水準点「交無号」

花壇の中に「一等水準点」があった。

発見日  2022年7月16日

発見場所 東京都中央区新川二丁目

 

しまった。

自分の靴先が写ってしまった。

気が付かなかった。

雨が降っていたので、水準点は水びだしになっていた。

 

再訪した時に(2022年7月25日)撮り直したもの



説明版

標高3.24m

 水準点とは、精密に測られた高さの基準点です。全国の主要道路に約2キロメートルおきに設置されており、各種測量の基準や地殻変動の検出に利用されています。
 日本の高さの基準である東京湾平均海面(標高0m)は、明治6年から12年の間に霊岸島で行われた潮位観測によって決定されました。この結果は、潮位観測に用いられた量水標近傍の「内務省地理局水準標石(霊岸島旧点)」に取り付けられましたが、明治24年に新しい基点として、この「霊岸島新点・交無号」が設置されました。同年、国会議事堂前の地に建設された日本水準原点の標高は、この水準点からの測量で決定されています。
 水準点番号「交無号」の由来は、水準路線が交差する点であることを示す「交」と、「0」を意味する「無号」を合わせたものです。
 この水準点は、まさに日本の高さの出発点として歴史あるものです。
 現在の水準点は、平成18年にこの地に移転されました。標石は昭和5年の移転時に作られたもので、小豆島産の花崗岩が用いられています。
 平成21年2月
  国土地理院関東地方測量部

 

国土地理院ホームページより
一等水準点「交無号」について

量水標と霊岸島旧点の関係図(大正8年作成)

図-1 量水標と霊岸島旧点の関係図(大正8年作成)

東京湾平均海面は、明治6年から明治12年東京湾霊岸島に設置された量水標での潮位観測の結果から決定されました。その観測結果は、量水標近傍の几号水準点(きごうすいじゅんてん)「内務省地理局水準標石(霊岸島旧点)」に取り付けられ、明治初期の高さの基準となりました(図-1)。

その後、明治24年3月に霊岸島旧点に替わる強固な水準点として「霊岸島新点・交無号」が設置されました。同年5月には、我が国の高さの原点となる日本水準原点参謀本部敷地内(現在の東京都千代田区永田町1-1-2 国会前庭北地区憲政記念館構内)に設置されました。その際、日本水準原点の標高は、この「交無号」から水準測量を行い定められました。近代測量の歴史において重要な役割を果たしたといえます。

時代は進んで、潮位観測と水準原点とを繋ぐ役割は、東京湾の埋め立てや隅田川の河川水の影響によって、霊岸島から神奈川県三浦半島の油壺験潮場に譲ることとなりましたが、数度の移転を経て、平成18年から現在の場所に鎮座し、現在も一等水準点として使用され続けています。

 

ここにもかつて「几号水準点」があったことを知ることができた。

今回も有意義な訪問・調査となり満足。