歩・探・見・感

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市重要史跡 恋ヶ窪村分水(恋ヶ窪用水路周辺緑地)

以前からここの存在は知っており、前の道は通っていたことがあるのだが、いつも素通りで、訪問したことがなかったので、今回立ち寄ってみることにした。

 

用水路跡と周辺の緑地は平成29~30年度にかけて整備され、平成30年7月13日に恋ヶ窪用水路周辺緑地としてオープンしたそうだ。

 

訪問日  2022年7月12日

訪問場所 東京都国分寺市西恋ヶ窪一丁目47番地他

 

案内版の後ろの林の中に、今回訪問した「恋ヶ窪村分水」がある。

葉が落ちた冬にくるべきだったかもしれない、と後で気づくのだった。

 

南側(正面)から見たところ。

木々に覆われており、よく見えない。

前面は擁壁に覆われている。

 

東側(右側)は遊歩道が整備されている。

舗装されていて歩きやすい。

 

木々が生い茂っており、中々隙間が見当たらなかったが、隙間があったので、柵の間からのぞいてみた。

壁と底部が見えるが、枯れ葉で埋まっている。

堀幅が上端部で約6~9m、堀底で約50cm、深さは約5mあるらしい。

 

一番奥(北側)からみたところ。

こちら側も木々でよく見えない。

 

西側に沿う道路は中世の鎌倉街道を利用した道で、江戸時代には川越街道と呼ばれる古道であったらしい。

 

案内版

江戸時代の初め、武蔵野台地は地下水位が低いことから人はほとんど住めない環境でした。しかし、承応3(1654) 年頃に玉川上水ができて分水が引かれると各地に新田村が誕生し、飲料水や生活用水、田用水として水が使われました。
 『上水記』によれば玉川上水の分水で一番古いのは野火止用水で、それに次いで「明暦3 (1657)年願済(ねがいずみ)」と記された国分寺分水・砂川分水・小川分水が出来ました。このうち国分寺分水は「国分寺村外二ヶ村(そとにかむら)組合分水」とも呼ばれ、途中で3本に枝分かれして国分寺村・恋ヶ窪村と、今の小金井市に含まれる貫井(ぬくい)村が水を田に引くために利用しました。
 分水口は小川新田(西武国分寺線鷹の台駅」南方)にあり、野川に合流する流末まで一里半 (約6 km)の長さで、水の利用料は一石五斗のお米、後にはお金で納めました。その後、明治3(1870)年に玉川上水の分水口が統合されると、今の砂川用水から分岐して水を引くようになりました。
 この緑地内の恋ヶ窪村分水路は、堀幅が上端部で約6~9m、堀底で約50cm、深さは約5mの規模で、堀底は北から南に向って低く傾斜しています。玉川上水の分水にしては規模がひときわ大きな堀ですが、それは分水口から南方の恋ヶ窪村まで水を流すのに、さんや谷と恋ヶ窪谷と呼ばれる2つの谷に挟まれた、この付近一帯の小高い地形に水路を通すためと考えられます。
 また、用水路の西側は中世の鎌倉街道を利用した道で、江戸時代には川越街道と呼ばれ、昭和 19 (1944) 年頃に現在の府中街道が整備されるまで、恋ヶ窪地域の主な幹線道路でした。恋ヶ窪村分水は、昭和 40 (1965) 年代初頭まで田用水として使われましたが、その後は大部分が暗渠となり姿を消しました。
 緑地内に残る恋ヶ窪村分水は、玉川上水の分水のなかでも規模が大きな堀で、後世に補修された形跡も無く、明暦3年当時の素掘りの形状を留めていることから、江戸時代の貴重な土木遺産として、開削後360年目にあたる平成 29 (2017)年に市の史跡として指定されました。

 

江戸時代の村と玉川上水の分水

載せては見たものの文字が小さくてわからない。

 

上の地図では新田名が気になった。

平兵衛新田、戸倉新田、本多新田の旧町名は発見した。

まだ発見できていない新田がいくつかある。

いずれ頑張って探してみようとさせるきっかけとなった。

 

発掘調査の様子

発掘調査では、底の底部から50cmほどの深さまで水が流れていた痕跡が確認でき、江戸時代の植木鉢やすり鉢、陶磁器の皿が数点発見されたそうだ。

50cmとは堀の規模が大きい割に水量が少ない印象だ。