赤坂青山北町の表札のことを調べていたら、ようやく場所を特定でき、行く前からちむどんどんしていた。
いつものように寄り道をしながらだったので、なかなかな目的の場所に着かない。
と思っていたら、いつのまにか着いた。
ここ来たことがある。
その時は、周辺を探したが、旧町名の痕跡は見つからなかったはずだ。
一応、設置されていたはずの煉瓦塀を確認してみるが、やはり、ない。
まさかやー。
消滅してしまっていた。
赤坂青山北町の探索は何回目だ?
ようやく場所を特定できたというのに。
よくあることさ。
こんなことで落ち込んでいられない。
よし、切り換えて、次に行こう。
今回は、新たに発見したものもあるので、旧町名「原宿」を紹介することにしよう。
えっ!
「原宿」は旧町名なの?
と言う方はこのブログを訪問してくれる方の中にはいないと思うが、「原宿」は1965年(昭和40年)に住居表示実施するまで存在していた旧町名だ。
①澁谷區原宿一ノ七八
発見日 2022年5月24日
発見場所 東京都渋谷区神宮前二丁目
「照 山代」って何だ?
人名?
調べたが分からなかった。
②原宿1の115
発見日 2020年9月29日
発見場所 東京都渋谷区神宮前三丁目
③渋谷区原宿2~168
発見日 2021年4月27日
発見場所 東京都渋谷区神宮前三丁目
④渋谷区原宿3の356
発見日 2022年7月21日
発見場所 東京都渋谷区神宮前二丁目
つい最近まで、このお宅のお隣も同様の表札があったらしいが、訪問した時にはなくなっていた。
風に飛ばされたのかも知れないと思い、付近を探すが、見つからなかった。
一応、あったと思われるところの写真を載せておこう。
写真をよく見ると右側にネジがある。
マイルドセブンの袋を画鋲で止めたところではなく、右側にあったのかもしれない。
歴史
『新編武蔵風土記稿』に原宿は鎌倉より奥州への往還に宿駅を置いた場所だからその名があると書かれている。なんとここに東北へつながる街道があったのだ。
龍岩寺の言い伝えに『源義家奥州下向の時、渋谷城に滞留し当所にて軍勢着到せしゆえ、今に門前の小坂を勢揃坂と唱える』とある。
源義家が奥州でのトラブルを解決すべく軍勢を引き連れて向かったのは平安時代後期なのでかなり前のことだ。渋谷城は今の金王八幡宮である。
渋谷から原宿へ抜けていたのである。
勢揃坂はどこにあるのか?
外苑西通りの原宿幼稚園前交差点から北へ向かう道をしばらく歩くと小さな下り坂があるのだが、そこが勢揃坂だ。
現在は、その勢揃坂を下ると目の前に国立競技場が現れる。
源義家が軍勢を率いて下った先に国立競技場があるって、急にタイムスリップしたような気持にさせれられる。
ここのゆるい勾配の坂を勢揃坂といい、 渋谷区内に残っている古道のひとつです。
後三年の役ー永保三(1083)年に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといれ、 この名が残されています。
このとき従軍した武士のなかに 板東八平氏(平氏の一族)のひとり川崎重家(渋谷の領主)がおり、手柄をたてたという伝説があります。 真偽についてはもちろんわかりませんが、 区内に伝わる源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。
原宿と言う地名は、関東各地にいくつか存在した鎌倉街道の宿場町としての名前だ。
江戸時代から明治初期にかけて、原宿村が存在していた。
明治22年
市町村制が施行されると、千駄ヶ谷・原宿・穏田の3村で千駄ヶ谷村を形成することになった。
昭和7年10月1日
渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が合併し、東京市渋谷区が成立。
こうした中で、原宿と言う名前は千駄ケ谷村大字(おおあざ)原宿、ついで渋谷区原宿1丁目~3丁目として存続していた。
昭和40年
住居表示に関する法律(昭和37年制定)に基づいて住居表示が変更となり、神宮前1~4丁目と、他の地名と共にまとめられた。
地名の由来
原宿と一緒に合併した穏田という地名と原宿をまとめようとしたのだが、どっちの名前を存続させるかが決着つかなかった。こうして、明治神宮の前だから・・・ということで、神宮前という新しい地名が与えられた。
原宿一丁目町会
原宿二丁目会館
原宿二丁目商店会 原二本通り
原二本通りという商店街の名称は、「原宿2丁目本通り」を意味している。
原宿橋の親柱
1934年(昭和9年)建造
神宮前2丁目18と神宮前3丁目29の間にある。
渋谷駅以北の上流約4キロは昭和時代に地表から姿を消し、暗渠化されたが、江戸時代から大正時代にかけての渋谷川には水車も多く存在した。葛飾北斎の『冨嶽三十六景』に描かれている「穏田の水車」は、キャットストリート付近にあった水車がモチーフとされる。
渋谷川・古川は、渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2.6kmを渋谷川、港区内の天現寺橋から河口間の4.4kmを古川と呼んでいる。
本川(宮益橋)の上流域と支川は、すべて暗渠構造で下水道化されており、本川の稲荷橋の下流から開水路となり、JR浜松町付近で東京湾に注いでいる。