歩・探・見・感

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地界 in 梶原稲荷神社

旧町名「大井元芝町」を発見した後、付近を探索していると、梶原稲荷神社の鳥居の手前に気になる石柱を発見した。

 

発見日  2022年8月15日(再訪日2022年9月1日)

発見場所 東京都品川区東大井三丁目

 

梶原稲荷神社

写真の左下に石柱がある。

 

石柱

「地界」と刻まれている。

境界石だろうか?

これに関する情報は、調べたが、見つからなかった。

 

真上から見たところ。

「T」字が刻まれている。

 

「境界石」は「境界標」や「境界杭」とも呼ばれている。

不動産用語的には「境界標」のような感じがするが、このブログで取り上げるものは石になると思うので、「境界石」としておこう。

 

犬坂

この坂は、階段が造られるなど舗装整備されているが、曲がりくねった坂道であった。犬坂の由来は不明であるが、俗称の"へびだんだん"はその曲がりくねった有り様からそう呼ばれている。

ある資料によると、ここに犬小屋が実在したことが犬坂の由来らしいが、それが徳川綱吉の生類憐みの令によるものかどうかがわからないとしている。

坂は下っていないが、元々は海が削った崖だったので、狭くて急こう配の坂のようだ。

→後日(2022年9月1日)坂の下から上ってみたが、それほどでもなかった。

 

説明板の表はInuzaka-slopeになっているが、裏はInu slopeになっている。

 

梶原塚稲荷祠 由来記

今ヲ距タル七百七十二年前(建久三年)梶原兵三景時、征夷大将軍源頼朝ノ命ヲ奉ジテ 武蔵国大井村鹿島谷ニ萬福寺ヲ建立シ、ソノ境内ニ守護神トシテ稲荷ヲ勧請シテ梶原稲荷ト尊称シタ。 元応元年十月、萬福寺ハ兵火ニヨリ消失シ馬込村ニ移リタルニ依リ、焼ケ残リシ稲荷祠ハ梶原屋敷内に奉遷サレテ、後、柴村来福寺ニ奉納サレ、ソノ追福ノタメ同寺ヘ松桜ナドヲ植エ寄進シタ。コノ梶原塚ハ、桓武天皇五代ノ裔、常陸少椽良茂ヨリ五代ノ孫、鎌倉權五郎景政ノ子孫梶原日向守 亦梶原助五郎一族ヲ祀ル古墳デアル。従来、コノ稲荷祠ハ南浜川櫻井源兵衛氏ノ所有ナリシガ、大正十四年一月ヨリ地元、元芝、関ヶ原ニ居住スル信仰者ニ管理ヲ委任サレ、地元民ノ協力ニ依リ社務所ヲ建設シ維持管理ニ当ツテ今日ニ至ツタ。梶原氏ハ鎌倉權五郎景季ト代々武勇ノ誉高ク、子孫皆ヨク栄エ、又、古来コノ地ニ火災、災難等無キハ、梶原稲荷ノ御守護ニヨルモノナリト伝エラレ、住民皆襟ヲ正シテ尊敬シ。昭和三十八年浄財ニ依リ大修理ヲ加エ、神徳ヲタタエテ信者集イ祭祀ヲ厳修シタ。

昭和三十九年二月十五日初午ノ日   

梶原稲荷講

 

今を距たる772年前(建久3年)梶原兵三景時、征夷大将軍源頼朝の命を奉じて、武蔵国大井村鹿島谷に萬福寺を建立し、その境内に守護神として稲荷を勧請して梶原稲荷と尊称した。元応元年10月、萬福寺は兵火により焼失し馬込村に移りたるに依り、焼ヶ残りし稲荷祠は梶原屋敷内に奉遷されて、後、柴村来福寺に奉納され、その追福のため同寺へ松櫻などを植え寄進した。この梶原塚は、桓武天皇5代の裔、常陸少椽良茂より5代の孫、鎌倉權五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族を祀る古墳である。従来、この稲荷祠は南浜川櫻井源兵衛氏の所有なりしが、大正14年1月より地元、元芝、関ヶ原に居住する信仰者に管理を委任され、地元民の協力に依り社務所を建設し維持管理に当って今日に至った。梶原氏は鎌倉權五郎景正、梶原兵三景時、梶原源太景季と代々武勇の誉高く、子孫皆よく栄え、又、古来この地に火災、災難等無きは、梶原稲荷の御守護によるものなりと伝えられ、住民皆襟を正して尊敬し。昭和38年浄財に依り大修理を加え、神徳をたたえて信者集い祭祀を厳修した。

昭和39年2月15日初午の日

梶原稲荷講

 

梶原稲荷神社
源頼朝の命により梶原景時が大井に建久3年(1192)萬福寺を創建した際、寺の守護神として勧請、梶原稲荷と称した。元応元年(1319)に兵火に罹り萬福寺は馬込へ移転、梶原稲荷は梶原屋敷へ奉遷、来福寺境内(だった)梶原塚に遷座した。この梶原塚は、鎌倉権五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族を祀る墳墓だといわれている。