歩・探・見・感

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千川上水分配堰碑&マンホール&千川上水調節池跡

中山道(種子屋街道)を探索していたら、掘割交差点(旧中山道明治通りの交差点)付近に千川上水ゆかりの地があった。

 

 

掘割バス停

「掘割」と呼ばれている理由は後程出てくる。

 

発見日  2022年8月4日(再訪日2022年8月18日)

発見場所 東京都北区滝野川六丁目9-1

 

千川上水分配堰碑

正面

千川上水分配堰

 

右側面

上部
玉川上水
水路新座
郡上保谷
新田分派

下部
樋口寸積百拾六坪八合
  内 八拾三坪四合 印刷局抄紙部 
    三拾三坪四合 王子村外廿二箇村 
樋口寸積百五拾坪   千川水道会社

 

左側面

明治十五年七月造之

 

裏面

裏面には明治42年3月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれている。

 

説明板

正面に「千川上水分配堰」(せんかわじょうすいぶんぱいぜき)とあるこの碑は明治15年(1882)7月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口(ひぐち)の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治42年3月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。これにより取水量が定められていたことがわかります。
千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水された上水で、左(南)側の道路が今は暗渠(あんきょ)となってしまった水路です。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていました。この分水路は、慶応元年(1865)11月、飛鳥山の西側(滝野川2-6付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開鑿(かいさく)されたものです。
明治時代になると分水路は、石神井川とともに現在の北区・荒川区台東区内の二十三ケ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙(しょうし)会社・大蔵省紙幣寮抄紙局(おおくらしょうしへいりょうしょうしきょく)の工業用水として利用されました。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され、多方面に利用されることになりました。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、互いに取水量を遵守(じゅんしゅ)するために、碑をここに設置しました。

 

千川上水の紋章が入ったマンホール

マンホール①角型蓋

角蓋は板橋駅東口近くにも2枚あるらしいが、まだ見つけられていない。

 

マンホール②大型サイズの蓋

大型の蓋

 

マンホール③直径60cm程度

このサイズのものは滝野川6丁目と7丁目の境に4枚残っているとのことだが、これ1枚しか見つけられていない。

 

発見日  2022年8月9日(再訪日2022年8月18日)

発見場所 東京都北区滝野川六丁目9-1

 

千川上水公園

豊島区のなかでもっとも古い公園で、その歴史は旧千川上水水路敷地を市民により旧東京市へ寄付された、明治13年にさかのぼる。千川上水は、かつてこの場所にあった堀割を経て、分水は六義園や、本郷、湯島のあたりまで流れていた。
現在のような公園として開放されたのは昭和15年
開園当初は都の公園だったが、豊島区にとっては初めての公園であり、古くから区民に親しまれてきた。
公園の地下には、現在でも水流を調節するために設けられた分水堰や、六義園に水路を引くために作られた由緒ある沈殿池が残っている。

 

最古とか最大とかいう言葉に弱い。

探索途中で「おっ、これがそうなのか。」と思うような発見がたまにある。

その内、最古特集とか最大特集とか組んでみようか。

でも何の最古や最大を撮ったのかを覚えていないのが大きな問題だ。

 

千川上水調節池跡

千川上水は、元禄九(1696)年、小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺浅草寺御殿と、下谷・浅草方面の江戸市民の飲料水を確保するために、玉川上水を分水した上水です、その後、近隣農村の農業用水としても利用されました。明治期以降は、紡績・製紙・製粉・伸銅工場などの産業用水として利用され、流域の地域や人々と密接に関わってきました。
上水は、ここにつくられた溜池(沈殿池)で、砂やごみなどを沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠となって江戸市中へ給水されました。なお、この付近を「掘割」と呼んでいますが、これは、慶応元(1865)年に、幕府が滝野川村に建設した反射炉の水車利用のため、王子方面への分水(王子分水)を開削する際に堀をつくったことに由来しています。
明治十三(1880)年、岩崎弥太郎らが設立した千川水道株式会社によって、本郷・小石川・下谷・神田方面への給水が再開されると、王子分水都の分配堰が設けられました。明治通りの向かい側(北区滝野川六―九)には、水利関係が刻まれた「千川上水分配堰」の碑(明治十五年建立)が残されています。
一方、公園側には分配堰の落し口があり、沈殿槽からの水量調整を行っていました。公園内には、駒込六義園方面への送水に使用していたバルブ(巻揚器)が現在も残っています。
 
平成十六(2004)年三月
豊島区教育委員会

 

千川上水流路図

 

千川上水沈殿池

このフェンスで囲われたバルブ周りを中心に、公園の地面の下には左下図のような沈殿槽 (池)があります。千川上水が上水としての利用が終わった後も、六義園に水路を引くために作られたものです。
戦後までは左の写真のような沈殿池がありましたが、 1973年頃に、図のような沈殿池に造り替えられました。
現在は、東京都東部公園緑地事務所が管理しており、利用されていません。公園入口の「千川上水流路図 (説明板)」および 「千川上水沈殿池 (説明板)」と明治通りを挟んで向かい側の「千川上水分配堰の碑(説明板)」も合わせて、ご覧ください。

千川上水の歴史と千川上水公園 沈殿池の成り立ち
「上水」とは、江戸時代、飲料にするため溝や管などで引いた水、今の「水道」のこと。

公園に鳩がたくさんいた。

一斉に飛び立つと、ひるんでしまう。

左側のフェンスに覆われ、林みたいになっているところを覗いてみるが何もない。
何でフェンスで覆っているのだろう。

 

遠目にはフェンスの中は木に覆われていて何があるか見えない。


導水門

 

排水門

フェンスに覆われているバルブは木が成長していてよく見えなくなっている。

どうにかしてくれ~。