今回は渋谷區時代の旧町名代々木上原町を紹介しよう。
区名が右横書き、区が區と旧字体になっていることから、戦前の物と考えられる。
今更ではあるが、なぜ戦前の物は右横書きになっている物が多いのかと気になったことはないだろうか?
アジ歴グロッサリーのQ&A「日本語の表記はどう変わったの?」等を参考にさせていただいた。
戦前の日本語の表記は、漢字は旧字体、公文書の仮名はカタカナで、歴史的仮名遣い(例えば「言ふ」や「ウヰスキー」など)を用いており、横書きの場合は右から左に書くという右横書きで書くのが一般的だった。
もともと横書き表記については、戦前に右から左に書く「右横書き」で書くという統一的な決まりがあったわけではなく、戦前にも現代のように左から右に書く「左横書き」で書かれたものも数多く存在していた。
戦前の横文字が右から左だったのは、縦書きの影響だ。日本語の縦書きは、行は右から左に進むから、額やのれん等の横長のスペースに書く時も、一行一文字の縦書きをする様に、かつては右から左へと書くのが一般的だった。ただし右横書き(右から左に書く横書き)とは、文字をあくまでも横長のスペースに収める都合上のものだった。
縦書きが右から左に書くものだから、それと同じ要領ということだ。
横書き表記の混在を避けるため、戦時中の1942年3月13日、文部省図書局国語課は「横書統一案要綱」(昭47厚生00035100)を取りまとめた。
この要綱において、国語の横書きは「左書トスルコト」と提言され、その後7月17日国語審議会で「国語ノ横書ニ関スル件」を採択し、横書きの表記は右横書きではなく「左横書き」で統一すべきことを答申している。
ところがこの答申は、特に右翼や保守層を中心に猛反発を受け、結果的に立ち消えとなった。
戦時中に受けた左横書きに対する猛反発は、戦後に欧風の印刷物や書き方が入り込んでくることでほとんど見られなくなり、1946年頃から徐々に新聞・雑誌や切手・はがき、紙幣などの印刷物も左横書きを採用する動きが出てくるようになる。
たとえば新聞では、『読売報知新聞』が1946年1月1日より左横書きに切り替えたのが最も早く、『毎日新聞』は同年11月16日に、『朝日新聞』は1947年1月1日からで、最も遅いものでも『日本経済新聞』もまた1950年7月25日より左横書きを採用している。
そして政府の公文書においても、このような日本語表記の簡素化・合理化の流れを受けて、表記の基準が改められるようになった。
1949年4月5日に内閣官房長官より通達された「公用文作成の基準について(依命通達)」(昭57総00051100)によれば、横書き表記に関しては一定の猶予期間を定めて「なるべく広い範囲にわたって左横書きとする」と定められた。
ということなので、戦後のものでも右横書きのものもあるかもしれないので、あくまでも可能性があるということになる。
そうなると旧字体「區」についても気になるよね~。
長くなるので、別の機会に調べてみよう。
①渋谷區代々木上原町一一二九番地
発見日 2022年8月22日
発見場所 東京都渋谷区上原
②渋谷區代々木上原町一一六〇番地
発見日 2021年3月11日
発見場所 東京都渋谷区上原
③渋谷區代々木上原町一一七三番地
発見日 2022年8月22日
発見場所 東京都渋谷区上原
階段の上にある左側の門に葉っぱで隠れている怪しい表札があった。
周りを見回し、人気がないことを確認し、もしかしたらと、階段を上り、近づいて見ると渋谷區時代のものだった。
葉っぱが邪魔だ。
現状維持だとほとんど見えない。
掟を破って、邪魔な葉っぱを左手で押さえながら写真を撮った。
こんなに時間をかけていたら、通りががりの人に怪しまれる、と思うだろうが、ゾーンに入っているので、周りに気にならない。
たまたま人通りがなかったのが幸いしたようだ。
誰にもとがめられることなく、撮影に成功した。
しかし、掟を破った祟りなのか、しばらく左手がかゆくなってしまった。
歴史
1932年(昭和7年)
東京市15区に隣接する5郡82町村の東京市への編入によって、渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が合併して東京市渋谷区が成立した際、旧代々幡町の大字であった代々木のうち字上原が「東京府東京市渋谷区代々木上原町」として成立。