歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

探索記録(2022年8月30日)

渋谷区、目黒区の探索中にいろいろなものを発見したので、アトランダム?アットランダム?どっちだ?
アットランダムは日本語で発音する場合に使用し、アトランダムは英語で発音する場合に使用するとある。

今回は日本語なので、アットランダムでいいのかな。

「ランダム」と、「アトランダム」は、少し意味合いが違っていて、頭に at が付くと、「でたらめに○○する」という意味になって、ランダム単独だと、「でたらめな○○」と、形容詞として使うのだとか。

そうなのか。

 

それでは、紹介していこう。

 

服部南郭別邸跡

服部南郭は、江戸中期の儒学者漢詩人で幼名を勘助、のち元喬といい字を子遷、書斎を芙蕖館と称しました。
 この場所は、南郭の別邸があったところで邸前にある坂道は、昔から南郭坂あるいは富士見坂と呼ばれてきました。
 南郭は、天和3年(1683)に京都に生まれ、16歳の時に和歌と絵画をもって江戸の柳沢吉保に仕え、また、荻生徂徠の門人となって、古文辞学と詩を学びました。34歳の時、柳沢家を辞し、ここの別邸で塾を開いて在野の人となり、もっぱら漢詩文に親しみ、後継者の育成に努めました。宝暦9年(1759)没。享年77歳。
 著書に「南郭文集」「大東世語」「南郭先生燈下書」などがあります。

 

荻生徂徠の名前は知っているが、服部南郭の名は聞いたことはなかった。
別邸を所有するくらいなのだから相当な人物だったのだろう。

 

東横線橋脚

東横線の高架橋の支柱を一部残し、鉄鋼やレー ルを組み合わせたオブジェを遺構として設置した。 オブジェや遊歩道上に記された番号は、渋谷駅から数えた高架橋の柱の管理番号を示している。

 

東京都選定歴史的建造物 ヒルサイドテラス A・B棟

東京都選定歴史的建造物
Tokyo Metropolitan Government Selected Historical Structures
ヒルサイドテラス A・B棟
HILLSIDE TERRACE A B
所在地 東京都渋谷区猿楽町29番18号
設計者 槇文彦
建築年 昭和44年(1969)
ヒルサイドテラスA・B棟は、その後四分の一世紀にわたって展開されたヒルサイドテラス集合体の第一期の 建物であり、1969年に完成している。
当時、この地域は第一種住宅専用地域で、建物の最大高さは10mに抑えられ、 容積率も150%までしか許されなかった。したがって、周辺は緑の多い屋敷町で、このような白い低層のモダーンな建物は珍しかった。
基本的には1階がレストランを含む店舗、2・3階は集合住宅の構成であるが、A棟のコーナーに小さな広場を設けたのも、当時としては珍しいアイディアであった。
そのリフレッシングな姿は今でもそのままで、特に東側の恵比寿の方から代官山を訪れる人達にとって、いつも 変わらないヒューマンな導入部を形づくっている。もしもここが神社であれば、この広場はさしずめ鳥居というところであろう。
東京都
TOKYO METROPOLITAN GOVERNMENT

 

この建物の前はよく前を通っていたが、この日初めて説明版があることに気が付き、「ヒルサイドテラス A・B棟」が「東京都選定歴史的建造物」であることを知った。

 

目黒区青葉台にある「みどり荘」

ぱっと見廃墟だが、2012年4月に本格オープンしたシェアオフィスだ。

中央付近に人がいるのが分かるだろうか?

ベランダの緑に囲まれていて一服していた。

森林浴しているようにも見える。

 

みどり荘から伸びる蔦が電線まで進出していた。

 

西郷山公園

ただいま工事中

 

目黒区ホームページより

公園名の由来はこの土地が旧西郷邸(西郷隆盛の弟で明治期の政治家・軍人であった西郷従道(じゅうどう)の敷地)の北東部分にあたり、付近の人々が「西郷山」という通称で親しまれていたところから決まりました。

台地の端の斜面を利用してつくられた公園で、斜面には20メートルの落差をもつ人工の滝が作られているほか、ゆるやかな坂道の園路や展望台が設けられ、冬のよく晴れた日には遠くの富士山も望めます。

台地の上には、明るい芝生広場とこれを一周する園路・人工の流れを配し、子どもたちがのびのび遊べるスペースになっています。滝や展望台からの眺めを楽しみ、憩いのひとときを過ごされてみてはいかがですか。

 

菅刈公園

 

菅刈公園のできるまで

この公園は、西郷隆盛の弟で明治期の政治家・軍人であった西郷従道の邸宅と庭園があった場所です。
江戸時代、この付近一帯は旧岡藩(現大分県竹田市)藩主中川 家の目黒抱屋敷 (別邸) であり、滝や池のある庭園は江戸の名所であったと伝えられています。。
従道は明治初年にこの地を取得後、洋館や書院を建造し、庭園も和洋折衷式に大改造を行いました。「東都一の名園」ともうたわれ、明治22年には明治天皇行幸が行われています。 第二次大戦前に西郷家の敷地は旧国鉄等に売却され、庭園は埋められて、戦後は国鉄の職員住宅として使用されていま した。
平成9年に行われた庭園調査で、近代庭園史上貴重な遺構 が良好な状態で地中に保存されていることが判明しました。このため、区では公園を整備するにあたり、2つの滝や池の一部を日本庭園として復原し、かつて書院のあった場所に和館を新築しました。 和館には、庭園を望むことのできる部屋やお茶会などのできる和室があり、この公園にかかわる資料な どが展示されています。

西郷従道の洋館

この西郷従道邸においては、明治13年(1889年)にフランス人建築家のジェール・レスカスにより、木造総二階建ての耐震仕様の洋館が建設されました。 鹿鳴館の時代を伝えるこの洋館は、明治期には、和洋折衷式の庭園とともに華やかな社交の場として利用されていました。また、昭和8年(1933年)には、洋館や書院などの建物と庭園は共に国の史蹟指定を受け、我が国を代表する文化財となりました。
この地が旧国鉄の所有となった後、洋館は一時プロ野球国鉄スワローズの合宿所として利用されるなどしましたが、(財) 博物館明治村 (愛知県犬山市) に譲渡され、昭和39年(1964年) に移築されました。
明治村は明治期の建造物の保存と活用を目的として設立され、本洋館の移築を契機として、昭和40年(1965年)に開園しましたが、同時に本洋館は国の重要文化財に指定されています。
本洋館については、平成9年に区が行った調査により、建物基礎に使用された石が確認され、 洋館跡がほぼ正確に特定できました。そこで、公園整備にあたっての貴重な建物のあった場所の記念とするため、洋館跡を石の縁取りで表示してあります。
洋館のバルコニー前にある区内最大のイチョウの木や、芝生広場にある三尊石は往時の場所のまま、庭園の変化を見守りつづ けています。

 

明治天皇行幸所西郷邸

 

三尊石

 

烏森稲荷神社

手水舎の吐水口が狐の顔になっているのは珍しい。

初めて見た。

 

小川坂

かつて、この一帯を「小川」といい、坂下に広がっていた田んぼを「小川田んぼ」 と呼んだ。この辺りの旧家小川家が地名の由来といわれる。また、この坂のある道は、鎌倉へ通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった。

平成二十一年三月

目黒区教育委員会

 

ブロック塀の下の方にレンガが積まれていた。(上目黒)

 

東山ストアーの恐竜の絵

文字が隠れている。

時間に余裕のある方は探してみよう。

 

答えは「ニ ク ヒ ガ シ ヤ マ」である。

たぶん・・・。

 

サロン・ドゥ・コロナ

山手通り沿いにある会社のプレート

この時期、「えっ!」と思ってしまう会社名だ。