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電力プレート ニチヨメ-3

今回は、茨城県で初めてかつ古河市で初めて発見した電力プレートを紹介しよう。

古河市は2年位前にも訪問したことがあり、この電力プレートが設置されている建物の写真を撮ったことがあるのだが、その時は電力プレートに関心がなかったので、気が付かなかった。

 

発見日  2022年9月19日

発見場所 茨城県古河市本町二丁目

ニチヨメ?

近くにある街区表示板を見ると「本町二丁目」となっているので、「ニチョウメ」の略のようだ。

しかし古河市に「二丁目」は旭町二丁目、けやき平二丁目、中央町二丁目、東二丁目、東本町二丁目、三杉町二丁目、横山町二丁目と多数あり、どこの「二丁目」かわからなくなってしまう。

なぜ「ホンチヨウ」にしなかったのだろうか?

「ホンチヨウ」だと古河市局管内で重複するからか?

調べてみると、この辺りはかつて「二丁目」と呼ばれていたことがあったようだ。

江戸時代、古河城下・古河宿の中心は日光街道に面した町通りで、南から台町・一丁目・二丁目・横町。つまり、これらの町通りの中心部を2つに分けて、一丁目、二丁目としたものだ。特に二丁目は、今では古河駅から西に直進した突き当り・足利銀行常陽銀行付近からその北側に伸びた通りに相当するが、本陣や高札場、脇本陣が集まっていた。

三丁目・四丁目・五丁目もあるが、これらは比較的新しい町名で、昭和13年(1938)、神宮寺・尊勝院の間から、横町東側の空地を通って、今の松並町に抜ける道路がつくられて生まれた町で、江戸時代にはなかった。一丁目・二丁目の延長として、名付けられたものなのだろう。

 

下記は高札場跡だが、説明板に「二丁目」と記載されているところがあった。

高札場と本陣

 日光道中の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目と呼ばれたこの辺であった。文化四年(一八〇七)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
 高札場は、幕府からの法令を掲げたところである。
 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめとして、高用役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は百十七・五坪(約四百平方メートル)もあった。本陣・脇本陣は最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
 問屋は、人足二十五人、馬二十五疋を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも三~四軒あって、交代で業務にあたっていた。
 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(二丁目曲の手 ※1)、横町(野木町 ※2)と続き、道巾は五間四尺(約十メートル)ほど、延長十七町五十五間(約千八百五十メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べていた。

※1 江戸時代初期には、横町と呼ばれていた。
※2 江戸時代初期には、野木町と呼ばれていた。

 令和三年三月  

 古河市教育委員会

 

以下は平成元年3月版の案内板

日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化4年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
 高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府機関の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は117・5坪(約400平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
 問屋は、人足25人、馬25匹を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも3~4軒あって、交代で事にあたっていた。
 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道巾は5間4尺(約10メートル)ほど、延長17町55間(約1850メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。

 

本題とは関係ないが、最新版と比較してみるとおもしろい。

 

説明文を長々と載せてしまった。

過去に二丁目の町名があったことは確認できたが、町名の変遷は、わからなかった。

それなので、自分としての結論は「本町二丁目」になる前に「二丁目」という町名があったことによるのだろうということにしておこう。