歩・探・見・感

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陸軍境界石 港区赤坂五丁目

赤坂サカスからTBS、赤坂パークビルの一帯には、敗戦まで近衛歩兵第三聯隊の駐屯地があった。

円通寺坂通にその痕跡と思われる陸軍の境界石があるので紹介しよう。

 

発見日  2022年9月13日(再訪日2022年9月27日)

発見場所 東京都港区赤坂五丁目

 

①「鈴振稲荷」の案内板の下 港区赤坂5-1

写真に矢印か丸で囲めれば分かりやすいのだが、利用している写真ソフトでのヤリカタガワカラナイ。 → ペイントでやればいいことがわかったが、次回からにしよう。

 

左側面

正面

少しだけ頭を出しているが、ほとんどが地中に埋まっており文字が読めない。
しかし、石の質・サイズ、設置場所から考えると陸軍境界石の可能性が高い。

 

伊藤園自動販売機の右下 港区赤坂5-1

 

陸軍と彫られている。

円通寺坂の一般道に出る営門(東通用門)付近のもの?

以前は、コンクリート壁に同化する形になっていたそうだが、周辺工事により露出することになったそうだ。

そのおかげで確認できるようになった。

 

③区営住宅「シティーハイツ 一ツ木」前 港区赤坂5-2

 

陸軍省所轄まで読める。
たぶんこの下に「地」があって、全体で「陸軍省所轄地」と書かれているのだろう。

陸軍用地の境界石と陸軍省所轄地の境界石の違いは何だろう?

設置時期の違いなのだろうか?

 

元は何本設置されていたのだろうか?

設置間隔はどのくらいだったのだろうか?

といろいろ気になることがあるが、調べた限りは、わからなかった。

 

近衛師団歩兵第三連隊等の痕跡については、別な記事で書く予定だ。

 

円通寺

元禄8年(1695)に付近から坂上南側に移転した寺院の名称をとった。それ以前に同名の別寺があったともいう。

 

港区立円通寺坂公園


公園にいたバッタ

 

鈴降稲荷神社

鈴降稲荷神社はもと四谷仲殿町にあり、伊賀町、仲殿町一体がその氏子であった。元禄八年、この社地が御用地となったので赤坂一ツ木に替地を給され、ここに遷座奉安された。その折任命された別当は鈴降山神宮寺別当願性院と称え毎年正月四日徳川家の武運長久を祈願したお札を将軍に献上のため登城するならわしがあった。明治十三年社殿類焼に遭い仮殿を建てて神鈴を奉安、更に明治二十五年内陣を土蔵造りとしたが大正十二年の震災で拝殿は大破、土蔵は崩壊したので大正十四年赤坂氷川神社境内稲荷社へ合祀された。今も一ツ木の横町は鈴降横町と称される所以である。
往古からのいいつたえによると朱雀院天台の頃の創設なりとか。花園院正和年中、稲荷の神七歳の童女にのりうつり「我は鈴降宇賀三社の霊神なり、わが持つところの鈴は天降の鈴なり一たび拝する者には家門繁栄ならしめん」と信託あり、よって鈴降の神号とすと。
又一説には天正十年織田信長本能寺の変に遭いし折、京阪にありし徳川家康急遽三河に帰らんとて、伊賀越えの際山中にて道に迷いし時、遥かに鈴の音が聞こえるので、その方向にたどりつくと観音堂あり堂主山名孝倫なる者がいて之を迎え厨子の中より三箇の鈴を取り出し家康に献じ、且つ付近の住民を集めて道案内と警護をしつつ伊賀の白子に出、舟にて海路浜松へ帰ることが出来たという。家康は、此の恩義を徳とし、江戸幕府を開くや、孝倫はじめその折の郷民を江戸に召して、四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。
よって彼等は一宇の祠を建て、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたという。

 

この鈴降稲荷神社は、NHK朝ドラ「ひよっこ」のヒロイン(谷田部みね子)が働いていた赤坂の洋食屋「すずふり亭」の裏にあったお稲荷さんのモデルとされている。