歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 市川市新田町

今回久しぶりに市川市を訪問した。

約2年ぶりだ。

10月だというのにまだ暑かった。この日(2022年10月4日)の市川市の最高気温は27℃。
セミも鳴いていて、まだ夏が終わっていない感じだ。

風が強かった。
日傘に翻弄され、頼りになるはずなのだが、邪魔にさえ思えるときもあった。

 

今回は市川市で発見した旧町名「新田(しんでん)町」を紹介しよう。

 

 

①新田町1-219

発見日  2020年9月28日

発見場所 千葉県市川市新田一丁目

 

市川市新田町一丁目一八五番地

発見日  2020年9月24日

発見場所 千葉県市川市新田一丁目

 

市川市新田町二―一三五二

発見日  2020年9月24日

発見場所 千葉県市川市新田二丁目

 

市川市新田町三丁目一一二番地

発見日  2022年10月4日

発見場所 千葉県市川市新田三丁目

 

市川ジャーナル紙に連載された歴史読み物『いちかわ史発掘』より

【82】近世の市川新田
 いちかわしんでん村の村高は幕末で215石余で、コンパクトな村をいえる。
 この村は新田名がつけられているが、なかなかどうして市域では早い時期に村立てされた村の部類に属する。
 幕府は元禄年間に、関東入部以降、天正・文禄・慶長と検地を実施し、つづけて寛永・慶安・寛文・延宝、と総検地をおこなった。それら検地の最後の仕あげとしてとりおこなったのが、元禄検地である。このとき市域でもっともはやく検地のおこなわれたのが新川新田であり、その年は元禄14年(1701)3月である。検地役人は長田長右衛門・藤井半四郎・池田新兵衛である。
 “市史”によると、市川新田は総武線市川駅本八幡駅の中間に位置している。旧集落は砂洲上に千葉街道の両側に並ぶように位置しているが、市川新田は江戸時代に入って開発された新田である、と記している。
 こうしたことがらからか、新田村落こそ典型的な江戸時代にできた村といわれるゆえんである。
 また、市川新田は村役人である名主田中家の先祖である、田中正成(明暦元年9月4日に没す)が指導して開発した村であるといわれている。江戸時代の初めに多く見られるいわゆる土豪主導型新田村落である。

 

歴史

1869年(明治2年
葛飾葛飾郡市川新田となる。

1871年明治4年
廃藩置県、県の統合により印旛県葛飾郡市川新田となる。

1873年明治6年
県の統合及び、郡の分割により千葉県東葛飾郡市川新田となる。

1889年(明治22年
東葛飾郡市川村、国府台村、真間村、平田村と合併し、東葛飾郡市川町大字市川新田となる。

1934年(昭和9年)11月3日
八幡町、中山町、国分村と合併、市制施行。市川市大字市川新田となる。

1951年(昭和26年)12月1日
市内の大字を町に変更。それに伴い、市川市市川新田町一丁目 - 四丁目となる。

1967年(昭和42年)2月1日
新田町の一部で住居表示施行、市川市新田となる。

1968年(昭和43年)2月1日
新田町の残部で住居表示施行。現在の市川市新田一丁目 - 五丁目となる。

 

地名の由来
「新田」の地名は田中正成によって開拓された地域を「市川新田」と呼んだことに由来する。 

 

新田の住宅街の中にある街路樹クロマツ

狭い道に生えているので、車で走るのは大変そうだ。

クロマツは千葉県市川市の木に指定されている。

 

いちかわ西洋館倶楽部

裏側

登録有形文化財

登録年月日 平成11年7月8日
建物構造  木造3階建、スレート葺
建築面積  146平方メートル
建築年代  昭和2年

 

「千葉県ホームページ」より

大正期に東京株式取引所の仲買人であった丸水渡辺商会の店主・渡辺善十郎氏により、日本家屋の母屋に隣接するゲストハウスとして建てられたもの。かつてこの地域一帯には、黒松林の中に洋館が点在していたが、時とともに姿を消し、完全な形で残っているのは、この建物だけとなっている。

昭和2年(1927)建築の木造3階建ての洋館で、玄関ホールはベイウインドウ状に張り出しており、その上には手摺りを廻らせたバルコニーが設けられている。また、南・西・北側の3面は、破風の拝みを押さえた袴腰型切妻破風を中心とする屋根で、側面の軒先に千鳥屋根を設けた構成の特徴ある外観を備えている。内部は和洋6部屋と屋根裏部屋からなり、最上の建築材料を使った質の高い造りとなっており、3階のステンドグラスの窓やアンティーク照明器具なども建築当時のまま残されている。

文化遺産オンライン」より

京成本線市川真間駅の南方、住宅地の一画に建つ。東京の実業家のゲストハウスとして建てられた洋館で、玄関ホール部のベイウインドウ状の張出しと南西北3面の袴腰型切妻破風を中核とする屋根構成に特徴がある。コンサートホール等として活用されている。

 

「市立市川考古・歴史博物館」より

東京の実業家のゲストハウスとして建てられた洋館。玄関ホールのベイウインドウ状の張出しと、南西北三面の袴腰型切妻破風を中心とした赤い屋根が特徴的。

 

明治、大正の名大工、「大亀」が図面無しで建てた西洋館。戦前は東久邇宮殿下も宿舎として使った。

戦時中、市川空襲の折には、庭内に爆弾が投下されたものの、近所の人たちが火を消して守ってくれたというほど、町の人々に愛されていた。

2017年(平成29年)に改修されている。
・1階は老朽化にともない一部手を入れたが、2、3階はほぼ当時のまま。
・コンサートホールの増築