今回は超有名なものだが、東京23区内では最古級クラスのひとつである旧町名「東京府荏原郡世田谷村経堂在家」を紹介しよう。
発見日 2020年2月27日(再訪日2022年10月19日)
発見場所 東京都世田谷区経堂五丁目
それは左側の立派な門柱(大理石だろうか?)に設置されていた。
近寄ってみよう。
この表札は、世田谷村成立の1889年(明治22年)〜1923年(大正12年)の間のものと考えられる。
今から約100年以上も前のものだ。
上部が割れているのが残念だが、奇跡の存在だ。
歴史
1889年(明治22年)5月1日
町村制の施行に伴い、池尻村、三宿村、太子堂村、若林村、下北沢村、代田村、経堂在家村の全域と、以下の5村の各一部を合併して世田ヶ谷村が発足(カッコ内は残部の編入先)。
世田ヶ谷村(駒沢村、松沢村)
弦巻村(駒沢村)
赤堤村(松沢村)
松原村(松沢村)
瀬田村(玉川村)
1923年(大正12年)4月1日
世田ヶ谷村が町制施行して世田谷町となる。
1932年(昭和7年)10月1日
荏原郡全域が東京市に編入され、世田谷町の区域に世田谷区を設置。
地名の由来(世田谷区ホームページより)
村の経堂在家という名については、いくつかの説が残されています。
現在、小田急線の経堂駅から少し南側の地には、福昌寺というお寺がありますが、この寺は正しくは「経堂山福昌寺」といい、江戸時代の初め頃に建てられた古いお寺です。当時この地を与えられていた松原土佐守弥右衛門という人が、自分の広い屋敷の中にお坊さんを迎えて開基したものだと言われています。
この松原土佐守という人は、徳川幕府のお抱えの医者(御殿医)として、中国から迎えられ日本に帰化した人ですが、医者なので当然たくさんの本を持っていました。このころ人々は、ほとんど字の読み書きができなかったので、本といえば、お経の本だと思い込んだということです。それに自分の屋敷内にお堂を建てたので、近くの人はこれを経堂と呼ぶようになりました。まもなく、松原氏が常徳院から玄浦和尚を迎えて寺を建て、この経堂の名をとって「経堂山福昌寺」と名づけたのは寛永3年(1626年)のことでした。現在、このあたりには松原土佐守の子孫やその関係者など、松原姓の人が多く住んでいます。
在家という名は出家に対して使われた言葉で、松原氏が自分の屋敷内に寺を建てて普通の生活をしながら仏教を信仰したのでそう言われたもので、経堂と在家がついて村の名になったとされています。
また村の名の起こりになったとされる第二の説は、昔この土地が開かれ始めたころのこと、既に野原の中に一つのお堂が建てられていましたが、その堂の造り方や形が関東地方には見られない京都風のものだったので、人々がこれを京堂と呼び、いつの間にかその字が経堂になったとされています。
さらに三つ目の説は、昔お経の本をたくさん入れた石室を土の中に埋め、そのうえに小さなお堂を建てて村の人々が信仰の糧にしたので、これを経堂と呼んだといわれるものです。在家についてはこの他、田や畑を含む家屋敷を持って住む人々が、何軒かまとまって小さな集落のような形になっているところをいうのだという説もあります。
この表札があるお屋敷に隣接している公園と特別保護区も併せて紹介しよう。
長島大榎公園
榎は何と読む?
エノキ
ケヤキは欅
経堂区画整理記念碑
この公園は1962年(昭和37年)経堂区画整理事業により世田谷区第三代区長の長島壮行氏の提供で開園したというようなことが彫られているようなのだが、逆光で全然読めない。
長島大榎公園の大榎
左の方で女の子たちがお話し中だった。
写真だけ拡大してみた
懐かしい車が写っている。
榎がメインの写真だが、車の方が気になってしまった。
北見橋改築記念道標
長島大榎公園内にある
正面
左側面
東 三軒茶屋を経て渋谷町に至る
西 砧村狛江村を経て登戸渡船場に至る
南 用賀瀬田を経て二子渡船場に至る
北 経堂在家上北沢を経て高井戸に至る
右側面(東)と裏面(北)を撮り忘れた。
経堂五丁目特別保護区
保護区の面積は1,817平方メートル、約544坪、テニスコート約7面分
特別保護区の小鳥図鑑
まだ間に合う。
時間があったら、行ってみよう。