歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

電力プレート サクラギ-7

以前、発見していたものだが、再訪して現存を確認してきた。
未紹介だったので、紹介することにしよう。

 

発見日  2021年10月23日(再訪日2023年1月7日)

発見場所 東京都台東区上野桜木一丁目

旧「上野桜木町」時代のものと思われる電力プレート。

茶色のペンキに塗られ、一部が隠れているので、気が付きにくい。

 

この建物に付けられていて、気になったもの。

「太神楽曲芸 十二代家元 鏡味古仙」とある。

以前はよく寄席に行っていたのだが、芸目の一つに太神楽があり、よくあんなことができるなといつも感心していた。

「十二代家元 鏡味古仙(かがみこせん)」について調べてみた。
  昭和24(1949)年~ 昭和56(1981)年 12月 5日
  昭和24(1949)年、江戸太神楽丸一の十二代目家元となる。

 

さらに調べていると太神楽曲芸の協会があることがわかった。

そのホームページに太神楽についての解説が書かれていたので、載せておこう。

太神楽(だいかぐら)は、古くから神社を祭る式楽、舞楽(ぶがく)より生じ、伊勢、尾張(熱田)、水戸などが代表的発祥地と伝えられています。

戦乱が収まり徳川家康江戸幕府を開府すると、太神楽師達は各大名に付いて地方へ広がり、獅子舞で氏子の家々を御祓(おはらい)する風習が生まれました。

このように神様への奉納、氏子への祈祷などが主体の【神事芸能】としての太神楽でしたが、その後寄席の出現などに伴い【舞台芸能】へと変化をしていきます。
獅子舞の余興として演じていた曲芸は、娯楽を提供する【寄席芸能】へと発展していきました。

江戸時代に広まったこの太神楽曲芸は、明治・大正・昭和と時代と共に技芸を発展させて、平成の現在へと受け継がれている伝統芸能です。

太神楽は『舞』『曲芸』『話芸』『鳴り物』の四つの柱から成り立っています。

【舞】    獅子舞・恵比寿大黒舞など
【曲芸】    投げ物(撥・鞠・ナイフ・輪など)
立て物(傘・五階茶碗・皿など)
【話芸】    掛け合い茶番(源三位頼政・祐兼参詣・五段目・鹿島の舞など)
【鳴り物】    下座音楽・祭囃子など
この様に太神楽は芸能の原点と云うべき要素を揃えており、時代に合わせた演出で観客の皆様に楽しんで頂いております。

 

寄席でよく見かけたのは、この中の曲芸だった。

その中の一つを紹介しよう。

土瓶の曲

土瓶の曲

太神楽曲芸協会より》

くわえた撥の上に土瓶を乗せ、この状態から様々な技を繰り出していく。

主な技は
・前後へ滑らす、横にして前後に転がす
・手を使わずにフタを取る
・勢いよくその場で回転させる
・宙返り
である。

写真の人物は今は亡き「鏡味 仙三郎」師匠である。

よくこの方の舞台を拝見したものだ。

 

興味がある方は寄席に足を運んでみてはいかがだろうか。

都内には新宿末廣亭新宿三丁目)、鈴本演芸場(上野)、池袋演芸場(池袋)、
浅草演芸ホール(浅草)などあり、2000円から3000円で一日中楽しむことができる。

 

あ~、かなり脱線してしまった。

全然電力プレートとは関係がない。

さて、戻ろう。

どこへ?

旧町名の話題に。

 

上野桜木町の旧町名由来案内が2種類あった。

書かれている内容が異なるようだ。

 

旧町名由来案内①

上野桜木町は、上野台とその東側山麓に広がっていた。上野台部分は上野花園町から独立したころで寛永寺域であったことからその子院が数多くあった。本町内にある寛永寺本堂は、慶応四年(1868)の彰義隊の戦争により寛永寺本坊はじめほとんどが焼失したため、寛永年間(1624~1643)に建てられた川越喜多院本堂を明治十二年に移築したものである。東側山麓にあたる現在の根岸一丁目二番付近は谷中村の飛地であった。
本町ができた年代は明治七年から同十一年二月の間と推察する。そして町名のいわれは、この付近に桜の木が多くあったことに由来する。

台東区下町風俗資料館付設展示場」
谷中は、震災や戦災で大きな被害を受けることのなかった数少ない地域である。このため寺院をはじめ古い建物が比較的多く残っている。この付設展示場は江戸商家の建築様式をもつ酒屋で大変貴重な建築物であることから、昭和六十二年に保存のため現地へ移築された。

 

旧町名由来案内②

上野桜木町は、上野公園北側の寛永寺寺域と上野台の東北麓(現在の根岸一丁目一番西側および二、三番の大部分)に二分されていた。前者は、上野花園町から独立した区域であり、後者は、谷中村の飛地であった。起立年代は、明治七年から同十一年二月の間と推察する。
町名のいわれは、桜の木が多くあったことに由来する。
町内にある寛永寺は、寛永二年(1625年)徳川三代将軍家光のとき建てられた。家光は、江戸城の艮(ウシトラ)の鬼門を鎮護するため、川越喜多院天海僧正に命じて建てさせたものである。寛永寺には、徳川家の墓所として六人の徳川将軍の霊廟がある。

 

旧町名由来案内の①と②、どちらが新しいだろう。

そんなこと誰も気にすることはないと思うが、自分はとても気になるのである。

下記の理由から②の方が新しいと考える。

・旧町名区域図の色の退色具合
・名所に浄名院が追加になっている

 

町会

 

街区表示板

 

歴史

1874年(明治7年)頃から1878年明治11年)頃までの間に上野花園町から独立して、上野桜木町として起立したと考えられている(下谷・浅草町名由来考)。

町域は、江戸期の谷中村飛地(上野台の東北麓。現在の根岸一丁目1番西側及び1・3番の大部分)と徳川氏廟所火除地(上野台上。上野公園の北側)の2つからなっていた。

1965年(昭和40年)8月1日
住居表示の実施により、谷中村飛地であった所は根岸一丁目1~3番になる。

1967年(昭和42年)1月1日
火除地であった所は上野桜木一・二丁目、上野公園にそれぞれ編入となった。