歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

埼玉県戸田市で発見した旧町名『東京市日本橋区御幸通薬研堀町』

当然表札ではない。

旧町名の痕跡が表札で残っているのがベストかもしれないが、元の所在地では完全に消滅してしまっているものも少なくない。

しかし、神社や寺院の中を探索していると旧町名の痕跡が残っていることが結構ある。

それだけではなく、学校、公園、バス停のなどの名称にも残っているものもある。

すでに当ブログではそのような痕跡をいくつか紹介しているが、これからも積極的に紹介していこうと考えている。

 

戸田市内にある寺院で発見した。

どこの寺院だったっけ?

あそこかな?

もしかしたら、神社だったかもしれない。

いや、やっぱり寺院だったよな。

立ち寄ったのは、「平等寺」だけだったと思うし、きっとそうだ。

何かの文化財を見に来たはずだが、見つからず、代わりにこの旧町名を発見した、のだったと思う。

 

と書くことでもないことを書いてしまった。

こんなこと読者にとってはどうでもいいことだ。きっと。

 

発見日  2022年12月29日

発見場所 埼玉県戸田市笹目六丁目5-4(たぶん)

昭和五年四月 吉日

東京市日本橋
御幸通薬研堀町四十六番地

と読める。

京都市のように通名+町名のようになっているが、正しくは「日本橋区薬研堀町」のようである。

 

薬研堀の痕跡が何か残っていないか探しに、東日本橋を訪れた。

 

薬研堀不動尊

 

提灯が連なって並んでいた。

やげん堀の文字があるが、なぜかひらがな。

漢字だと読めないからかな。

 

地図に載っていた写真

 

これは実際の薬研堀不動尊のお堂

ここにも提灯がぶら下がっていた。

 

ホームページより

御本尊・不動明王尊像は、崇徳天皇の代、保延3年(1137)真言宗中興の祖・興教大師・覚鑁上人が43歳の厄年を無事にすまされた御礼として、一刀三礼敬刻され、紀州根来寺に安置されたものです。

その後、天正13年(1585)、豊臣秀吉勢の兵火に遭った際、根来寺の大印僧都が尊像を守護して葛籠に納め、それを背負って東国へ下りました。やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、天正19年(1591)堂宇を建立しました。これが薬研堀不動院のはじまりです。幾多の変遷がありましたが、明治25年(1892)真言宗智山派大本山川崎大師平間寺の別院となり、今日に至っています。

 

境内点景

 

納めの歳の市之碑

歳の市は年末に正月用品を商う市のことで、江戸時代の中頃から各所で市がたっていた。一時中断されていたが昭和40年、地元の町会、商店街の有志が江戸以来の伝統行事、下町の風物詩を後世に残すことを考えて、薬研堀不動尊歳の市保存会が結成され再開された。
この碑は保存会結成30周年を記念して平成8年に建碑され歳の市の由来等が刻まれている。

碑陰の記
遠く江戸時代の中頃より江戸の街では十二月に入ると各地で歳の市が立った
歳の市とは門松 〆縄飾り 羽子板等の正月用品を売る市を云う かつて東京の歳の市は十二月十四日 十五日の深川八幡に始まり 浅草観音 神田明神 芝の愛宕神社 平川湯島の両天神を廻って最後は二十八日の薬研掘不動尊で終り 特にこの市を薬研堀不動尊納めの歳の市と言われた 初めの頃は梅の盆栽が売られ梅の市とも呼んでいた 戦前は何十軒もの羽子板屋が不動院門前に並び横町には 神佛具 臼 杵 まな板 ざる 箒等の迎春用品の露店が出店し 当時の千代田小学校の通りには「かさ市」が立ち 〆飾り 門松 竹 海老 こんぶ等が 威勢よく売られ 身動き出来ぬ位の人出に下町情緒豊かな歳末風景がみられた
先の大戦の頃は戦火の拡大と共に一時中断してしまい戦後なんとか復活させたものの時勢に合わずさびれる一方であった
時移りようやく昭和四十年地元の町会商店会の有志が是非とも江戸以来の伝統行事下町の風物詩をしっかりと後世に残すべきと「薬研堀不動尊 歳の市保存会」を組織して 同時に近隣問屋街とも協賛し 衣料品 日用雑貨等を市価の半額で販売する「大出庫市」を併催することとなり苦心経営の末 最近になってようやく往時の賑わいを取り戻すことが出来た 有り難いことです
又 想いめぐらせば戦前戦後を通じて 本院の大本山である川崎大師平間寺の厚いご加護を一貫して賜ったことも復興への銘記すべき事柄である
本年は 大出庫市を併催して 丁度 三十年の節目に当たるので 歳の市復活に情熱を燃やした先人達を偲び 此の町の今日までの 歳の市への過ぎ越し方をこの碑に留め一つの証とする
平成八年四月十五日
薬研堀不動尊
歳の市保存会

 

順天堂発祥之地碑

江戸時代当地は、医者街といわれたほど、医者が多く住んでいた。順天堂の学祖と仰がれている佐藤泰然が、天保9年(1838)に和蘭医学塾を開講した地に、現在の当院境内地が含まれていた。この縁から、学校法人順天堂の申し出により境内の一隅を提供し「順天堂発祥之地碑」が建碑された。

 

講談発祥記念之碑

古い記録によれば、安政5年(1858)「太平記場起源の碑」が建立され、その後当院境内に移されたが、大正12年(1923)の関東大震災で講談ゆかりの碑が消滅した。現在の碑文は平間寺第44世貫首 髙橋隆天大僧正の撰・筆であり、昭和59年12月1日に再建されたものである。

由来の記
元禄の昔, 赤松清左衛門は浅草見附辺の町辻で 太平記を講じ, 江戸講釈の発祥となった。これが 後に「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親 しまれ, 安政年間,「太平記場起原之碑」が建て られた。この碑はその後, 当不動院境内に移され 大正十二年の関東大震災まで名物となっていた。
この度, 当不動院講談協会との因縁により, 真言宗宗祖弘法大師一千百五十年御遠忌を記念し, 相はかって茲に新たに建碑をなすものである。

大僧正 髙橋隆天撰書

弘法大師一千百五十年御遠忌記念

昭和五十九年秋吉祥
大本山川崎大師平間寺
東京別院薬研堀不動院
講談協会
建之

講談発祥の資料提供
日本大学国文学部教授
民俗芸能研究家
永井啓夫

 

やげん堀七味唐辛子本舗奉納品

唐辛子屋さんがあるのかと思い探してみたが見つからなかった。

事前調査していればよかったのだが、行き当たりばったりが多い。

この記事を書いているときに調べたところ、昭和十八年に浅草に移転してしまっていたのだった。

何と戦前のことではないか!

なぜ移転してしまったのだろうか?

浅草寺の方が人の集まり、商売になると考えたのかもしれない。

 

薬研堀不動尊が載っていたのはこの地図だけだった。

薬研堀跡は載っていない。

 

日本橋  商店会案内図

白く消されたところは何と書いてあったのだろう?

現在は「東日本橋やげん堀商店会」となっているようだ。

 

商店一覧

この中に大木唐からし店(東日本橋2-21-6)がある。

というか、あったというべきか。

調べていたところ、2021年(令和3年)7月31日で閉店してしまったことが分かった。

閉店の理由は「店主高齢のため」らしい。

1656年(明暦2年)創業と360年以上の歴史がある店だったようだ。

知るのが遅すぎた。

残念。

 

御幸通り

両国橋たもとから日本橋中学校の前、東日本橋交差点を経て常盤橋に至る通りを地元は「みゆき通り」と呼んで親しんできた。発端は震災後の昭和5年復興視察をされたとき、千代田尋常小学校に立ち寄られ、その時に通った道路に「御幸通り」の名称がついた。現在、日本橋中学校の校庭一角に記念碑が立つ。

 

歴史

1872年(明治5年)
薬研堀埋立地と旗本村越豊之助等の隣接の武家地を併せて薬研堀町が起立。

1878年明治11年)11月2日
東京府日本橋区に所属。

1889年(明治22年)年5月1日
東京府東京市日本橋区に所属。

1903年明治36年
薬研堀は完全に埋め立てられ、堀としては消滅したが、地名としては残った。

1933年(昭和8年
帝都復興計画の一環により、殆ど全てを両国に編入。町域は地図に載らないほどの極狭となった。

1943(昭和18年)7月1日
東京都日本橋区に所属。

1947年(昭和22年)3月15日
東京都中央区日本橋薬研堀町となる。

1971年(昭和46年)4月1日
住居表示の実施により周辺の町を併せて東日本橋二丁目に編入となり消滅。

 

地名の由来

隅田川べりにあった堀で、薬研(薬種を細かく砕く船形の器具)に似ていたことから、薬研堀といい、町名となった説がある。

 

薬研堀」という町名が残っているか調べたところ、広島県広島市中区にあった。

こちらは、広島城を囲む堀の一つに薬研堀があったことから付けられたようだ。