歩・探・見・感

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旧町名 北乗物町

随分前に発見したものだが、今まで北乗物町の千代田区町名由来板があるのに気が付かなかった。

昨日(2023年2月11日)、神田北乗物町付近を歩いていたらたまたま町名由来板を発見することができたので、今更であるが紹介することした。

 

①北乗物町5

発見日 2019年9月14日

 

②北乗物町8

発見日 2019年11月30日

 

千代田区町名由来板

 

神田(かんだ)駅の東側には、古い町人町(ちょうにんまち)の面影(おもかげ)を残す町名が目につく。鍛冶町(かじちょう)、紺屋町(こんやちょう)、北乗物町(きたのりものちょう)。そしていまは消えたが、塗師町(ぬしちょう)、鍋町(なべちょう)なんていうのも戦前の頃まで、現在の鍛冶町の領域のなかにあったという。地図を眺(なが)めたり、町を歩いたりしているときに、こういった町名表示に出くわすと、往時のにぎやかな職人町の風景が想像されてきて楽しい。
子どもの頃から地図好きだった僕は、千代田区の地図に初めて「北乗物町」の名を発見したとき、電車やバスの工場や車庫がずらりと建ち並んだ“乗物の国”のような世界を思い浮かべた。神田というと、須田町(すだちょう)に交通博物館があるから、そういう連想が働いたのかもしれない。しかし「乗物町」の名は、調べてみると江戸時代に発生したもので、いろいろな説があるようだが、駕籠(かご)職人がこのあたりに住んでいたらしい。
なるほど、中央区の領域にはなるけれど、近いところに小伝馬町(こでんまちょう)、大伝馬町(おおでんまちょう)、馬喰町(ばくろちょう)といった、馬を使った運送業者に由来する町がある。この一帯が古くからの交通の要所だったことが偲(しの)ばれてくる。
ちなみに、北乗物があって「南」はないのか?と思われる方もいるだろうが、南乗物町というのも戦前までは存在していたようだ。
小さな北乗物町の界隈(かいわい)を歩いてみると、さすがにいまは駕籠屋の面影を残すような家はない。車関係のオフィスや工場が目につくこともない。ただし、ビルの狭間(はざま)に小さな町工場がぽつぽつとあって、「北乘物町」と旧字体で綴った(つづった)昔の町名表示板がいまもそのまま張り出されている。
ホーロー引きの古めかしい看板に記された「乘物」の文字に、僕は幼い頃に親しんでいた“ブリキの自動車”の光景を重ね合わせた。

コラムニスト 泉 麻人

 

北乗物町の町名由来について

北乗物町は、明治二年(1869年)、元乗物町代地(もとのりものちょうだいち)、兵庫屋敷代地(ひょうごやしき)、神田紺屋町二丁目横町代地(かんだこんやちょうにちょうめよこちょう)が合併して成立したときに、この町名が付けられました。この町は鍛冶町一丁目(かじちょういっちょうめ)の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。
「乗物」という名の由来は、諸説いろいろあります。駕籠(かご)をつくる職人が多く住んでいたという説のほかに、祭りが盛んで、江戸の二大祭りの山王祭(さんのうまつり)と並び称される神田祭(かんだまつり)の際にかつぐ神輿(みこし)をつくる職人が住んでいた、駕籠をかつぐ人が多く住んでいたという説や、馬具をつくる職人が住んでいたなどで、いずれの説も江戸の庶民の生活に密着した江戸の時代を感じます。
ほかに乗物と付く町は、元乗物町元地(もとのりものちょうもとち)(現・鍛冶町一丁目)、新乗物町(しんのりものちょう)(現・中央区日本橋堀留町(ほりどめちょう))などがありました。

 

北乗物町町会