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「桶川市指定文化財 松山以奈り道の道しるべ」と「二宮金次郎像」 in 桶川市立桶川小学校

桶川小学校の敷地内に設置されているものがある。

 

発見日  2021年11月23日(再訪日2023年2月28日)

発見場所 埼玉県桶川市西一丁目4-29

 

桶川市指定文化財 松山以奈り道の道しるべ

 

右側面

天保七年三月

 

左側面

當駅世話人

 

松山以奈り道

(魚)

魚の字が図案化されている。

 

本小田原町

 

 

種別 民俗文化財(有形民俗) 平成八年五月二十九日指定

この道しるべは、東松山市にある箭弓稲荷神社への道を示すもので、中山道桶川宿の北のはずれから分岐していた「松山道」の入り口に、天保七年(一八三六)三月に建てられたものです。松山道は、桶川宿の上の木戸付近から西に折れて、畑や林の間を通り、下石戸村(現北本市内)を過ぎ、荒川の渡しを経て松山に通じていました。
箭弓稲荷神社は、江戸時代中期頃から、商売繁盛や厄除けの神様として広く庶民に信仰され、各地の稲荷講(稲荷様を信仰する団体)を始めとした多くの参拝者でたいへんにぎわっていました。
江戸時代当時、神田多町(現在の神田駅付近)に青物市場、日本橋田原町(現在の日本橋北側のたもと)に魚市場を設け、百万人都市江戸の食糧流通の拠点として整備していきました。この道しるべは、日本橋田原町の魚市場の人々が箭弓稲荷神社への参拝の目印として建てたといわれています。
これを物語るかのように、この道しるべには「松山以奈り道(魚)本小田原町」と刻まれています。「以奈り」とは「稲荷」の当て字で、魚の字が図案化されたとてもユニークな道しるべです。
賑やかな桶川宿の往来をぬけて箭弓稲荷へ向かう人々の道先案内を担ってきたこの大きな道しるべは、その役目を終えた今日この場所に移されましたが、今もなお多くの人の往来を静かに見守っています。

平成二十五年三月
桶川市教育委員会

 

広報おけがわ 2016 2月号 NO.977より

東松山の箭弓稲荷神社への道を示すもので、中山道桶川宿の上の木戸付近を西に向かい、松山道に分岐するあたりにありましたが、べにばな陸橋の敷設等に伴い、今は桶川小学校の北側に場所を移してあります。高さ二メートルほどの堂々とした姿です。

正面には「松山以なり道(魚)本小田原町」右側面に天保七年(一八三六)三月」左側面に「當驛世話人」とあります。以奈りは稲荷の当て字です。箭弓稲荷神社は、五穀豊穣、商売繁盛、厄除け、火難除けなどの祈願社として多くの信仰を集めていました。
また、本小田原町は、日本橋と江戸橋の北岸にあった魚河岸です。十八世紀には人口百万を超える大都市に発展した江戸の人々の食卓を賑わせ、江戸の繁栄を象徴する魚市場でした。この本小田原町を中心にして江戸市民の間に箭弓稲荷神社信仰の沢山の講
が組まれていました。講中の、また代参の人々や近在四方の人々の参詣は引きも切らず、社前市を成す賑やかさだったといわれています。この道しるべはそれらの人々の旅の便宜を図るため、本小田原町の人々の肝いりで建てられました。
道しるべの中に魚の文字が図案化されていて、江戸の洒脱と魚市場の人々の心意気が感じられる面白いものです。

説明板には「日本橋田原町」とあり、広報おけがわでは「本小田原町」とある。
調べてみると「日本橋本小田原町」と書かれているものあった。

日本橋田原町」「小田原町」「日本橋本小田原町」「本小田原町」は同じ町名だったのか?

旧町名マニアなら気になるよね。

調べてみよう。

近世江戸の城下には、二つの小田原町が存在した。初めに成立したのが日本橋北詰の「小田原町」で、町の名は小田原の石工善左衛門が当地を石揚場(舟で運んだ石材を荷揚げする所)として拝領したことが起源だと伝えられている。
やがて「小田原町」に魚市場(日本橋魚河岸)が開かれ、石揚げ場は築地に移転して「南小田原町」と称したため、日本橋北詰の「小田原町」は「本小田原町」と改称した。

ということで「小田原町」は「本小田原町」と同じだった。

日本橋田原町」と「日本橋本小田原町」は頭に「日本橋」が付いている。「日本橋田原町」や「日本橋本小田原町」で検索するとどちらも出てくるが、調べた限りでは、「日本橋」が付いていない「小田原町」や「本小田原町」が存在した町名のようだ。

旧町名の「小田原町」については、いくつか痕跡を見つけているので、別な記事で書く予定である。

 

二宮金次郎

校門を入った左側にある。

この像は昭和15年(1940年)の《皇記二千六百年》を記念して桶川町の建築職業仲間が桶川小学校へ寄付したものらしい。

 

報徳訓

2017年3月17日に設置したそうだ。
この看板は、地域の方からの強い要望により、桶川市桶川市教育委員会が設置したものらしい。

父母根元在天地命令
身体根元在父母生育
子孫相続在夫婦丹精
父母富貴在祖先勤功
吾身富貴在父母積善
子孫富貴在自己勤労
身命長養在衣食住三
衣食住三在田畑山林
田畑山林在人民勤耕
今年衣食在昨年産業
来年衣食在今年艱難
年々歳々不可忘報徳

「父母の根元は天地の令命にあり」
自らを育んでくれた父母の存在は先祖のおかげである。

「身体の根元は父母の生育にあり」
自らの貴重な身体は、父母より授かったものである。言い換えれば父母の分身だが、父母が自らに施してくれた徳は、限りない愛情とたゆまぬ養育の努力以外の何ものでもない。しかし、父母の生育も、その父母の根元である先祖の存在、天地の恵なくしてはありえない。

「子孫の相続は夫婦の丹精にあり」
各個人の心を受け継ぐ、家を継ぐ、ひいては国、社会、人類の歴史を継ぐべき使命の若者達の進歩発展は、一円融合の精神をもってなされる。現在繁栄している全ての物事に共通しているのは、良き後継者を残すためには、それ相当の必然性を必要とする。

「父母の富貴は祖先の勤功にあり」
日本伝統の遺物遺産とは現代日本人の環境であり性質である。また、伝統的精神とは現代日本人の心ではなく、現在に至るまでの日本人の心。先人が努力した有形無形の力は、日本人 の伝統として生きている。

「吾身の富貴は父母の積善にあり」
父母の子孫にたいする精神や恩もまた伝統である。しかし、あまりに身近であるが為に気づかず、また、あまりに大きなものであるがためにとらえにくいもの。成長した現在の自分を振り返ったとき、全てが父母の積善勤功によるものだと気づく。

「子孫の富貴は自己の勤労にあり」
祖先の精神文化を、より正確にさらに前進するよう近代化し、それを子孫に伝えていくことは、一中継者として自己の義務であり、子孫繁栄の道を切り開くものでもある。

「身命の長養は衣食住の三にあり」
人間が生きていくにあたって必要なものは衣食住である。これらについて、自分の生活に合わせて節度をわきまえることは、天命の寿命を全うする最善の道である。

「衣食住の三は田畑山林にあり」
田畑山林があれば必ず衣食住には困らないということではなく、田畑山林という自然と神の恩恵あってこそ、衣食住を満たされていると理解すること。また、自然破壊は天災につながる。

「田畑山林は人民の勤耕にあり」
自然の持つ無限の徳は、人が手を入れて初めてその価値が発揮される。土地の価値をいかにして高めるか、また、産業においてもどのようにして発展させるかは、人々の努力と勤勉にある。

「今年の衣食は昨年の産業にあり」
今年の衣食が整うためには、自然の道に則った昨年の苦労と努力があってこそである。このことは産業だけでなく人生のあらゆる行為全てに通じるものである。

「来年の衣食は今年の艱難にあり」
昨年の努力と丹精によって今日という現在があるのだから、今日という日々は未来のためにいっそう努力しなければならない。日々努力し継続することは大変なことだが、しかし、その辛さに打ち勝ってこそ期待すべき未来を望める。

「年々歳々報徳を忘るべからず」
物事を報徳の精神で考えることこそが明るい社会の建設に一番大切なこと。この精神の考え方や生活態度を、現代日本人の生活の基本として忘れてはならない。