歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 千代田区神田一ツ橋

2023年3月2日、日本教育会館で神田法人会主催の決算説明会があったので出席してきた。

 

変わりがなくてよかった。

 

発見日  2020年12月28日(再訪日2023年3月2日)

発見場所 東京都千代田区一ツ橋二丁目

 

旧教育会館の門柱→1928(昭和3)年創設
この門柱は、1928(昭和3)年、当時の帝国教育会によって建設された旧教育会館に附設する教育図書館と教職員の東京宿泊所であった「一ツ橋寮」の入口の門柱である。当時、 教育図書館は東京市からの補助を受け、一時期東京市立神田簡易図書館となり、今日の 千代田図書館に引き継がれていった。その後再び教育会館附設図書館として現在にいたっている。
この由緒ある門柱は日本教育会館建設20周年を記念して整備された。
1997年6月吉日

 

町名由来版

神田神保町二丁目(かんだじんぼうちょうにちょうめ)は、一丁目(いっちょうめ)とともに世界に誇る古書店街(こしょてんがい)として知られていますが、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいました。町名の由来は、元禄(げんろく)(1688年~1704年)ごろ、現在のさくら通り(救世軍(きゅうせいぐん)本部の横)のあたりに神保長治(じんぼうながはる)という旗本(はたもと)が広大な屋敷をかまえ、付近に神保小路(じんぼうこうじ)という通称が生まれたことからです。一ツ橋(ひとつばし)はさらに古く、徳川家康が江戸入府のころ、日本橋川(現在の外堀)に架けられた橋の名称に由来するものです。
明治五年(1872年)の市区改正で、この地区は南(みなみ)・北神保町(きたじんぼうちょう)と呼ばれるようになりました。そのころはまだ人口の少ない場所でしたが、付近の一ツ橋地区に開成学校(かいせいがっこう)をはじめ、東京大学、東京英語学校などが連なる文教地区として発展したため、神保町一帯には多くの書店が軒(のき)を並べるようになりました。明治後期には隣接の町内を含めて数十軒の古書店が生まれ、大正の初期には周辺の学校は七十以上を数え、新刊書店や出版社も増加しました。昭和戦前にかけては、喫茶店や映画館も含む学生街として大いに繁昌(はんじょう)したものです。
第二次大戦中、神保町と一ツ橋地区はともにアメリカ軍の空襲を免れ(まぬがれ)ました。神保町は昭和二十二年(1947年)に神田神保町と改められ、その後も、隣り合う一丁目や三崎町(みさきちょう)、小川町(おがわまち)なども含む古書店街として発展を続けてきました。一ツ橋一帯は企業が集中し、昭和四十一年(1966年)には竹橋や神保町など、地下鉄の各駅も誕生して交通至便となり、近年は海外から訪れる人も増えています。
私は半世紀以上も前、高校生時代に初めて一ツ橋の共立講堂を訪れて以来、この地区全体の文化の香りに引かれ、とくに書物文化の奥深さに強く魅せられるようになりました。以後も週に一度ぐらいは必ず訪れていますが、その間にめずらしい本、貴重な資料を見つけた経験も数多く、古書店の主人から書物のことを教えられたこともあります。手に入れたばかりの本を近くの喫茶店で開くのを、いまでも最大の楽しみとしています。伝統ある二つの町のたたずまいは、東京の中心部にふさわしい品位を備えているようです。

紀田 順一郎